アテナイ人ソクラテス(BC470~399)が生きた時代は、二つの大きな戦争があった時代だった。
その一つはアテナイ全盛期を齎すことになるペルシア戦争(BC492~449)であり、もう一つはスパルタに敗れて凋落を決定づけるペロポネソス戦争(431〜404)である。
古代アテナイの繁栄のきっかけは、ペルシア戦争中に採掘強化されたラウレイオン銀山からの収益によって、通貨を鋳造し、海軍力を高め、戦争に勝利し、貿易を推進したためだと言われている。この時代はアテネ民主政を完成させたペリクレス(495〜429)が最高指導者を務めた時代(444〜430)でもあり、デロス同盟の盟主として君臨した絶頂期でもある。
戦争によって、「奴隷」を獲得し、それに銀山を掘らせて富を得て、それを資金に軍艦を製造して戦争に勝ち、さらに多くの奴隷を得て、生産労働ばかりか家事労働にまで「従事」させる。
おまけにデロス同盟で集めた資金も自分たちで運用し、もはや笑いが止まらない市民たちは、もちろんいざという時や、奴隷獲得遠征の時には武装して戦う必要もあるが、そうではない平時の時は、場所中ではない力士のようにヒマである。
暇な市民たちのために劇場があり、劇作家などがおり、詩の朗読大会もあり、そのあとは「戦勝祝い」として徹夜の飲み会があり、もちろんその間「労働」なんてしない。労働は全て奴隷がやる。
プラトンの弟子でアレキサンダー大王の家庭教師である大哲学者のアリストテレスでさえ、「ポリスの市民こそが完全な人間であり、奴隷は支配されるように生まれついた不完全な人間であるから、市民が奴隷を所有するのは当然のこと」と述べている。
市民たちの仕事は戦争に行くことであり、その目的は略奪と捕虜と奴隷の獲得である。そしてやがてアテナイもスパルタも他のポリスも、限られた植民市の奪い合いを始め、そこに同様の目的のペルシアの手が伸びてくることになる。
BC404年にスパルタなどのペロポネソス同盟軍に無条件降伏したアテネは、デロス同盟を解散させられ、実権を握ったスパルタ寄りの三十人政権が次々と粛清を行ったため、翌年民主政支持勢力により反乱を起こされて追放され、民主政に戻ったが、ペロポネソス戦争の敗北や三十人政権時代の問題の処理などのために告訴が続発していたと言う。
こうした中で、ペロポネソス戦争における敗因の一つと言われる指揮官アルキビアデスや、混乱を深めた三十人政権の指導者の一人クリティアスがソクラテスの信奉者であったことから、「若者を惑わす者」としてソクラテスが告発・処刑されたのは399年のことだった。ちなみにソクラテスはペロポネソス戦争に参加している。
「饗宴」の開かれたと言われる416年は、ペロポネソス戦争の真っ最中であり、戦える市民にはいつ「出動」の声がかかってもおかしくない状態だった。実際この時戦場や軍艦上にいた者もいるはずである。その最中に徹夜で酒飲んで実利のない哲学について歓談する。政権批判もする。不謹慎に思う者があってもおかしくない。
そして405年にはアテナイはアイゴスポタモイの海戦でほとんどの船を失い、捕虜となった兵も将軍もことごとく処刑されたが、これはこれまでアテナイがしてきたことへの「報復」である。404年にはスパルタに包囲されてやがて無条件降伏してスパルタの支配下に入ることになる。
404年にペロポネソス戦争が終わった時、プラトン(427〜347)は23歳だった。399年にソクラテスが死んだ時は28歳だった。『饗宴』を書いた385年は42歳だった。
アリストテレス(384〜322)がアテナイのプラトンアカデミアに入ったのは367年の17歳の時、アレクサンダー大王の家庭教師になるのが342年で42歳の時。ピリッポス2世とその子のアレクサンダーがアテナイ・テーベ軍を撃破して全ギリシアに覇権を確立するのは、その4年後の338年のカイロネア戦だった。
次回からリベラルアーツで読むことになるエピクロスは341年生まれ。彼も18歳でアテナイのアカデメイアで学んだという。
そして、凋落したアテナイで彼が目指したのは静かで慎ましい集団生活だった。
(以上年号は全てBC略)