ここのところコロナで外出の機会が減ったためか、逆にどんどん書籍を購入してしまう。本は西荻Nawa Prasad書店に「アマゾン・コピペ」で注文すると2〜3日で届く。
私は、本を読む時カバーを外す。本を読む所は、デスクとそして寝床である。デスクで読むときは、本の左右を川で拾ってきた石で押さえて「手放し運転」で読行する。この時にカバーがあると何かと邪魔になる。寝床で読むときは、メガネの関係でうつ伏せで読む。これは手で押さえて読まざるを得ないが、本によってはカバーを外すと「手放し運転」が可能になるものもある。まあすぐにその姿勢に疲れて電気を消して眠ってしまうのであるが。ともあれ私は、本を購入するとすぐにカバーを外す。それは机の左端に重ねてあって、読み終わるとカバーをつける。
長年の「悪習」で、私は常に数冊の本を併読している。これは、気分に合わせて読みたい本を変えているだけであるが、こうして本の購入量が増えると、読み終わっていない(つまり併読中の)本のカバーが重なってくる。今、左目でそこに重なっているのを読むと、上から、
プラトン作『饗宴』(岩波文庫)
『エピクロス』(同)
青木栄一著『文部科学省』(中公新書)
池谷裕二著『最新脳科学が教える高校生の勉強法』(東進ブックス)
エレイン・アーロン著『敏感すぎる私の活かし方』(片桐恵理子訳/パン ローリング刊)
村中直人著『ニューロダイバーシティの教科書』(金子書房)
朝井リョウ作『正欲』(新潮社)
山本東次郎著『狂言の勧め』(玉川選書)
草薙龍瞬著『反応しない練習』(KADOKAWA)
『チャート式基礎からの数学Ⅱ』
以上が現在「併読中」の書籍であるが、こうして列挙するといかにも場当たり的読書で、やや気恥ずかしくもなるが、私が今読んでいるのはこれらの本である。中には一番下の本を代表に、なかなか読み進められないものもある。
しかし我ながらやや呆れる。これでは大量に買ってきたお菓子の袋を片っ端から開けて食べる節操のない子どもと同じではないか。
しかし、タンクに入れた水が確実に少しずつ減っていくように、やがてほとんどが「消費」されるが、その後からも本がやってくるから、今度は読み終わってカバーをつけた本が重なることになる。
「本」とは、その道の専門家が書いたものである。「作家」もこれに含めよう。一つのこと、もしくは複数のことを他の人より詳しく知る人がそれを伝えるために書かれている。そこには当然「最新」の情報が含まれる。
私は一応教育の「プロ」であるが、実は「教育学」の専門家ではない。「哲学」は趣味であるが、社会学の専門家ではない。科学の専門家でも、経済学の専門家でもないし、もちろん政治の専門家でもない。こんなことは当然のことであるが、個々の専門家たちもその専門外の領域については「専門家」ではないことは当然のことだろう。
専門家は、その専門分野において、他の人たちよりも新しく細かいデータを持っている人たちである。そして、そのデータの解析をもとに論文を書く、あるいは本を執筆する人たちである。
魚市場で魚を捌く人たちは、その道の「プロ」ではあるが、「専門家」ではない。それは、専門家のように多数の包括的なデータを持たないからである。しかし、彼らは目の前の魚がどういう状態であるのかを直接見知り、それによって現在近未来の自然の変化・動向を予見することも可能な「プロ」である。「プロ」と「専門家」で役割が違うと言ってしまえばそれまでだが、前者がなければ後者にはその対象とするデータがなく、後者がなければ前者は科学的に正しい情報を得ることができない。
さてその心理学、教育学、社会学の最先端の「専門家」たちが書いていることを読むと、そこに、僭越ながら、これまでとは異なり、「自分の分析考察主張してきたことはやはり正しい」という気持ちが起こるのであり、何か大きな新しいことを発見するということはほとんど起こらないという感慨になるのである。また優れて綿密な記述をする専門家が、やはりデータばかりで現実そのものについての知見が足りないために、その本当の「仕事」に近づけていないことも感じられる。
ともあれ、勝手なことに、子どもたちへの教育を通じて、自分が実践してきたことが、これら専門家の書き記したものから、「正着」であったことが確認された気分になるのであるからおめでたいが、これではやや退屈な気持ちが起こることも否めない。
過去データを持つ「専門家」ではなく、「プロ」が見た最先端のナマの現実、この意識をもとに本の執筆をするべきなのかもしれない。
関係ないが、昨日のリベラルアーツでは、プラトン『饗宴』のディオティマから後ろ約50ページを最終章アルキビアデスまで読み通したが、これまたいつも以上に読む順番の奪い合い、あたかも生簀に投げ入れられた餌を魚が競って波立てながら食するよう、さてまた、蟻の大群がセミの死骸の「ご馳走」に群がるように、まるでペロりんちょと平らげるかように、連続集中完読した。時間がなくなって議論ができなかったが、次回までに「結局自分にとって愛とはいかなるものということになるのか」の考察結果を各自文章化して来て発表することになった。すでに書いたが、彼らは「作家」である。「ペラ2〜3枚で仕上げる感じでいいですかあ?」と言ってくる生徒もいる。もうすでにおおよその書くことがアタマの中にあるのである。
また、今回は最初に、「アピタイト」として、小5「村長」のカヌー作文を音読したが、彼ら中2の「作家」たちは、これを拍手を持って褒め称え、「よく書けるな。これはもうすでに『作家』だな」と呟いた。
そもそも彼らは別に勉強が得意な「優秀」な子どもたちではない。「フツー」の子どもたちである。しかし彼らは、こうしてプラトンを読んで理解し、自分の考えをまとめることができる。そしてこれは、いかなる中学生でも到達できることなのである。
いかなる教育改革よりも、まず先行的に行うべきこと。それは子どもたちの日本語了解/運用能力向上の機会均等的教育である。そしてそれは、カタカムナ音読と抽象構成作文と古典名文会読リベラルアーツで可能である、と「現場プロ」は言いたい。