世の中の変化を無視する学校教育について | JOKER.松永暢史のブログ

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PC、IT、スマホ、オンライン、AI・・・・世の中がこんなにも大きく変化しているのに、教育が変わることがない。あくまでこれまでの「型」を保とうとする。そしてそのためには、本来教育というものがしてはいけないはずの「差別」まで行ってしまう。

「いじめ」とは、学校システムのあり方によるストレスが主要な原因である。学級崩壊とは、授業やクラスのあり方に対する生徒たちの不満が爆発した結果である。そして、それでも変化しようとしないと、今度は圧倒的な不登校選択の増加ということになる。「不登校」は、学校に来ないのであるからもはや「対処」のしようがない。

まだ気がつかないのか、いや気がついたとしても変えることができないでいるのか。

これまで通りの授業をすれば良いと思って職についた教師たちは、それが並大抵ではない困難なことである「現実」を知る。かといって、彼ら「末端」の労働者たちがどうこうできる問題ではない。問題はシステムのあり方で、それを根本から変えるには「上」からの改革が必要である。だがそれは、決して行われない。これからも多分すぐには行われない。「上」の者も、その受けた「教育」のおかげで発想力を奪われているらしい。忖度や対処には秀でても、状況を抽象化して把握し、その抜本的な改革には何が必要であるかを見出すことができない。

世は「ニューロ・ダイバーシティ」の時代でもある。子どもたちが多様化して現れてくるのは、彼らが予め本能的に未来社会のあり方に適応しようとして生まれてくるからだと観ずる。少子化社会で、思う通りに動くことことを習慣化した子どもたちに、小学校に入学したから、ハイ整列していうことを聞いてじっとしなさいとやっても、子どもはその理由を理解できないし、不愉快で苦痛に感じる。授業の内容は、多くはテンポ遅く、しかもグダグダと板書きを移すことが「学習」とされるから、それを受けることの無意味さを感じてしまう子も多い。

ネットで自分の興味があることを検索すれば、学校の先生よりはるかに上手な解説を次々に閲覧することができる。N高などが多くの生徒を集めるのはこの流れである。でも、「義務教育」下の小中学校では、生徒たちは、古臭くてあまり役に立たないことを、古臭いやり方で吸収することが求められる。

不登校を選択する子どもたちの、圧倒的なその理由の言葉は、鋭く、「行く意味がない」である。彼らは教育本線の能力の伸長が、そこにはないことを直感しているのである。

当たり前のことだが、未来社会は、若者やその下の子どもたちの世代によって担われる。その人たちが賢くなればなるほど、その社会は良いものになるはずである。民主主義社会を継続しようと思えば、個々人が自分なりの意見を持ち、それを発言していく環境が必要である。それには言語力の整備が欠かせない。しかし、妙な漢字教育は行われるが、正しい日本語の発声や作文の書き方は教えられない。結果、18歳の大学入学時点で、そこで学ぶのに必要なまともな日本語能力を身につけている者は、ごく一部ということになってしまう。まともな日本語能力をつけようとしている者は教科者や解説書を読んで自分で学ぶことができる。つまり、学校で授業を受けなくても、それよりはるかに速く有効にその学習内容を学ぶことができる。しかもわからないことはネットで検索すればそこに答えや解説がある。

そもそも学校の与えるべきものはこの国語力なのであるが、教師になる者たちの多くがその能力に不足するから、子どもたちにまともな読解力や文章力を与えることができない。そして教師の採用倍率は下りに下がっている。

国語力ばかりではない。知っての通り、我が国では、中高6年間英語教育を受けても、英語で自分の意見を自分で表明できるようにはならない。さらに数学においては、高校2年の段階で多くの者が、微積分がわからないまま数学学習を「終了」する。そして今最も不足するのは、解析、行列、統計処理といった数Ⅲ以降の数学を理解する能力のある者たちなのである。

ごく一部の者が「生き残って」、彼らがリーダーとなって社会の役に立つことをするより、多くの者が「優秀」化し、その人たちが切磋琢磨し続けて社会をよりよくしていこうとすることの方がどう考えても合理的である。未来を支える子どもたちに最良の教育を与えようと奮闘努力することは国家の「仕事」であり、それあってこそこの国の未来発展がありうるのに、くだらない損得勘定ばかりで、実は「無能」であることは表に出さない。そして、いうことを聞かせる学校教育をこなすことができる鈍感者たちは、それに気がつくことはできない。結果的に子どもたちの持つ創造的能力の芽は、学校教育の中で見事に摘まれていく。

筆者の子ども時代の給食は美味しくはないものだったが、最近子どもたちには、「給食は美味しい」と評判である。それはまずいと子どもたちが食べないからである。これと同様に、多くの子どもたちを集めて、その子どもたちにとって有意義で楽しいことを与えることができないとは、どう考えてもおかしなことである。不登校が多くなるのであれば、給食同様、その内容を変えるのが当然ではないか。