筆者は長い間受験教育に携わった結果、それを含めた教育の根底に必要なのは、能力開発可能な教育環境設定であると思い当たり、「教育環境設定コンサルタント」を自称した。しかしこれは、子どもの将来を望む親に、単にそれが受験においてだけではなく、その後もその資質を活かした成長ができるようになることを心がけなければその意味はないこと説得する「難事」だった。しかし実は反面、これはクライアントをダマすことになることをしないようにする思想だった。
私はダマされたくない。
ゆえに人をダマすことはできない。
人をダマす自分を容認したくない。
しかし、「世間」にダマされて教育についてアタマがオカしくなっていることに自覚的ではない親たちに、子どもの「教育」とは彼らが考えていることとは「別物」であることを理解させようとすることは、相対価値の否定つまりその仕事を失うことを意味した。
しかし、子どもの持っている潜在可能性を見出し、それを顕現させるようにすることにこそ教育の根本意義を感じる私は、たとえ仕事を失っても、その「間違い」を指摘することに躊躇しなかった。そしてそのために、料金を必要以上に高くしないことも心がけて来た。「無料」の仕事も数多くして来た。
金持ちである経営者よりも「知力」が劣る可能性が高い一般の人は、「資金」に限界があることにより、マスを対象として利潤を追求する受験産業のカモになり易かった。そしてその子どもの多くは必要以上に傷つけられた。だが、「教育機関」というものの利用の仕方がわからない人たちに、その「誇り」を傷つけずに、子育てのアドバイスをすることは至難の技であった。「学習院」を選ばずに「ICU」を選ばせる皇室にはどのような教育アドヴァイザーがついていることだろうか。本当はできたら「SFC」にしたかったのではないか。
たとえ親は「愚か」でも、子どもたちにはその「個」を追求する無限の可能性が「平等」にあり得るはずだと思う。だからこそそこに「教育」があるのだと思う。そしてそれを説得するには、子どもの能力がはっきりと拡大していることを実感させる「技術」が必要になる。
「カタカムナ音読法」—目下のところこれ以上の言語能力開発法は現れない。
「サイコロ学習法」—これもこれ以上に算数数学学習に必要なアタマのコアを育成するものは現状見あたらない。
「抽象構成作文法」—文章を自由に書けるようにする「元」はこれである。これはすべての文章構成に通ずる「普遍的」なものである。
これらはすべての小学校教育がすべての未来を司る子どもたちのために与えるべき知能訓練であると確信する。
その上で「リベラルアーツ」—これは超古典を複数読むことによって、主体的価値判断能力の可能性を高めることであるが、これに参加した生徒たちを欲しくないと思う大学はあるまい。大学の求めるのは古典中の古典をベースにした教養力である。
だったら、最初からそれを与えることができるように教育すれば良いと思われるが、現行ほとんどの学校教育ではそれは「不可能」である。
いまのところ、18歳時点で、自身の考えを文章化できる者はごく少数である。そしてそれは明らかに「オカしい」ことである。
国語力を高めることがその基本である教育がその役目を果たしていない。
教育は、塾予備校文科省教科書会社はおろか、上は大学から、下は中高小と、私立公立に関わらず、そこで「仕事」をして飯を食う人のための「手段」に成り下がってしまっている。
「教育」は、私たち社会の未来を支える子どもたちの健全な育成よりも、過去に拘泥して飯を食おうとする、あたかもシロアリのような人たちの「餌食」に成り果てているのが「実情」である。
私は常に「先」へ行き過ぎているが、遅れた人たちが「餌食」のままであることを観察することは堪え難い。