「個性」を育てることに自覚的でない教育について | JOKER.松永暢史のブログ

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たとえば、植物を育てる時、我々はその植物に合った土壌と環境を与え、それが自ら光合成を行って成長して行くのを見守ることになる。必要な「肥やし」も与えることもあるが、これを与え過ぎると枯れてしまうことも知っている。植物は自ら光合成を行うことによって成長する。人間が成長させているのではなく、勝手に成長しているのである。

たとえ種類が同じでも、また一見同じように見えても、個々の株は他とやや異なった成長を見せる。彼らは彼らなりに芽を伸ばし葉を広げ、徹底的な光合成を行って成長する。そして花をつけ実をつけ、あるいは根や茎に養分を蓄え、「世代交代」しようとする。

植物の成長のために人のするべきことは少ない。剪定などもするが、別に大きな収穫を狙うのでなければ、そのまま伸びるままに育てるのがふつうであろう。木だって邪魔にならなければその必要はない。

少子化社会になって、人間の子どもは益々各々互いに異なった部分を持つ存在として顕現してくる。一人一人の子が、他の誰も持たぬものをいくつも持ち、それが混ざりあった状態で学童期、少年期を過ごして成長して行く。彼らの成長の先がどうなるかはわからない。けれどもおそらく彼らはその親たちよりも優れた生物的直観によって、これからの社会に適応・発展して行く道を選ぼうとしていることだろう。

「個性を伸ばす教育」などと言うが、そんなことは嘘っぱちである。そこには「個性」とはどういうものであるかという「哲学」がない。ゆえに、「個性」を観察することができない。さらには芽が出かかった「個性」を発見することもできない。場合によってはそれを「摘んで」しまう。「個性」を伸ばすには、それがいかなるものであるかを哲学することと、その観点に基づいた「発見」が欠かせない。というより、本当は個性を伸ばすことなんて考えていないのではないか。

「知能」にも個性がある。人間の中には多種多様な能力が混ざりあっている。ある能力がすでに良く成長しているが、他の能力が遅れて成長してくることもある。個性を形成するこうした諸処の能力が芽を摘まれずにできるだけ大きく成長して行くように育むこと、それが「教育」であり、そしてそのことによって自己の特殊化→普遍化を可能とする者が多くなればなるほどその社会は「豊か」になるはずである。

「個性」の柱には与えられた気質(精神)と肉体があり、これが万人全く同じ者がいないのが「人間」である。牛や犬にもこれがあるかもしれないが、彼らがその脳でやっていることがどれほどのものであるのかはわからない。その前に、人間がこの地上で最強の「動物」であることを再確認すべきか。

他に全く同じものを持つ者がいない存在個体としての人間の子どもは、その唯一の精神と肉体を用いて最大限に成長する可能性を追求すべき存在であり、その可能性は何人によっても禁じえない。そしてそれゆえにそれは他者との「比較」の対象にするべきことではない。

以上、「協調性」は必要であるが、これからの子どもを、教育便宜上、いたずらに旧来の価値観による「型」にはめて、その発達するべき個性の成長の芽を摘み続けること、あるいは「隔離」すること、「離脱」させること、そして言うことを聞いて残った者にはあまり役には立たない多くのことを含んだ知識を学ばせるという旧〜い教育を与え続けようとしていることに自覚的でないことは、この先人間的存在として「万死」に値することになってしまうのかもしれないと、改めて「冗談」で思うところである。