自分も徒らに馬齢を重ねた「古い」タイプの年代にさしかかっているとは自覚するが、最近哲学科に進学する女性が多くなっていることについて思う。
なぜ男性は、なぜ生きているのかということを考える傾向が強いのか?そして女性は、なぜそのようなダイアローグをすることが少ないらしいのか。いや少なかったらしいのか。
生きている自己存在に対する肯定感は、それが生活的に窮乏していなければ、通常意識する必要もないはずである。
また同時に、自分がなぜ生きているのかと言う問いかけも不要である場合が多いことだろう。
愉しければそれで問題ない。おそらく多くの女性はそう考えるのではないか。
ところが、多くの女性には可能であるらしいこれが、男性にはできないことが多い。
—愉しいだけ?何か虚しくない?
—いいじゃん愉しければ。何の問題があるの?
—人って何で生きているのだろう?ボクって何?
—何言ってんのよ。生きているからこそそう言った問いかけが可能なんじゃないの。
女の人は男性に比べて哲学しない。「哲学者」にならない。なんでそうなのか。いやそうだったのか。
男だってそうだったけれども、現代は女の人の方がスピリチュアルが好きな人が多い。シャーマン系も圧倒的に女性の方が多い。
これは考えるというより、感じることを「信じる」ということなのであろうか。
この一方で自分で考えることを目指す哲学科を志望する女性たちが増えているという。
なんでであろうか?
昔、卑弥呼なんていう人もいたが、歴史上のあらゆる宗教指導者は、モーセ、キリスト、ソクラテス、ブッダ(釈迦)、孔子とまず間違いなく皆男性だが、これからは女性特有の観点から人間社会を再構築して見せる女性の哲学者たちが現れてくるということなのか。そしてそれは兄弟のいない「少子化」と関係があるのか。また結婚率の低下と関係があるのか。
はっきり言って、それは楽しみである一方で少しコワい。
ソクラテスが妻のクサンチッペに自分とは全く異なる価値観によって口で完全に言い負かされたら「出家」したかもしれない。
でもそれも面白いことに思える。
リベラルアーツは、3月中は『ブッダの言葉』を読み切って、4月からは『響宴』をテキストに、女生徒の参加者も交えて「愛」について議論・考察することになった。「旧制高校」も共学化されることになったが、どれほどの「志願者」がいるのかまだわからない。
同時に、子どもたちばかり賢くなってもやり辛いので、母親たちを集めてプラトン『響宴』をテキストにリベラルアーツを開催しようと思う。愛について女性たちと語るなど、なぜか非常に面映いことに感じられるが、そこで男性として学ぶことは実に多いと予想せざるを得ない。
もちろんそこに、「勇気」ある男性が参加するも可能であるが、もし実現すると、子育てもの書きライターとしては、興味深い知見が得られるとも予感している。女の人が入って会議がさらに喧々諤々になるのであればそれはまたそれでかえって面白いことになるにちがいない。曜日などはまだ未定だが、適宜な人数で開催したいと思っている。
なぜか子どもたちが自ら夢中になって行うリベラルアーツを、母親たちが行うようになるとどうなるのか。
やはり、経験のないことは若干怖いものである。
それにお父さんたちに恨まれること必然である。
—余計なことを教えるな!
しかし、そう思う男は、森さん同様、「アタマが古い」ことになる。