昨日14日夜のリベラルアーツは、『旧約聖書—出エジプト記』を会読し始めた。
すでに、ソクラテス、孔子、孟子、韓非子、老子、ブッダなどを通じて、ユーラシア諸地域の思想的特徴を把握し始めた者たちは、同時にそこに共通するものを抽象し、また異なる部分には「作り話」として捨象せざるを得ないものがあることを知る。
初めにこのユダヤ人の「聖書」の一つを読むことは、金融、科学、医学、芸術などの面で、世界で少数である彼らが他に抜きん出た能力を示す集団であるのはどういう思想的背景があったのかを知ることを目的とすることを確認し、簡単にユダヤ民族史を解説し、トーラー、タルムード、そしてシオンの議定書の存在を説明し、軽くユダヤ人教育に触れて読み始めた。
昔ニューデリーの映画館で、ヒマつぶしに、「Carrie」と言う、いじめられた少女が魔女に変身して超能力でメチャメチャ大暴れするという世にも恐ろしいアメリカ映画を見たことがある。このとき、インド人たちは、何と首がすっぽ抜けるようなチョーコワいところで拍手喝采の大爆笑。それまでもあちこちで笑い声がしてオカシイと感じていたが、ついに映画が盛り上がれば盛り上がるほど大爆笑が起るようになり、スクリーンを指差し、足をバタバタして笑いこける。映画を見たこと以上に、映画を見るインド人たちの集団を見たことの方が驚きだった。何たる文化の違いか。これはある意味でキリスト教思想をヒンドゥ教思想が笑っていることにもなろうか。別の映画館で、悪者の集団にさらわれたヒロインをヒーローが救出に来る大団円では、何とヒーローが下手な特撮で空を白馬に股がって現れるので思わず大爆笑しようとすると、周りのインド人たちは即座に席を立ってスタンディングオベーションで大拍手。この文化の違い。日本人は朝ドラを見て涙する。タイ人は「おしん」を見て日本人以上に涙する。そして自分も日本人特有の反応を無自覚的にしているに違いない。それは何によるものなのか。カルチャーなのか教育なのか。
『出エジプト記』を読み始めた生徒たちの反応は至る所で大爆笑。「こんなのあり得ない!」「ウソだ!」の連発。杖が蛇に変わる話もナイル川の水が血になる話も、エジプト人のすべての首子や家畜も死ぬというのもみんなあり得ない大げさな表現、つまり創作。ついには海まで割れるとなれば、しかもその地面が乾いていたともなれば、ウソしか考えられない。だいたいからこの話を書いたやつはずいぶん昔の話をどうしてこんなに細かく書くことができるのだ。神と話したことを誰が伝えたのか。疑念は尽きなくなってくる。しかし、だとするなら、翻って、我が国の天孫降臨神話、アマテラス伝説なども皆作り話と言うことになるまいか。
民族をまとめるために「お話」を作ること。そしてみんなでそれを信じることにすること。それを「文化」というのか。
リベラルアーツ『出エジプト記』次回以降は、シナイ山モーセ十戒、その上で神との契約、そして細かい儀礼法の指示へと続いて行く。これを日本人生徒たちはどう読むか。非常に興味深い。
末尾ながら、このリベラルアーツの会講は、むろん大したことはないものの、筆者の他のあらゆる教育メソッド以上に能力開発の要素が濃いものに感じられる。土曜の夜に時間がある人への参加をお勧めする。
次回は28日18時より。テキストは『旧約聖書ー出エジプト記』(岩波文庫)。