文科省の発表によると、国公立私立の学部ごとのアンケート調査で、共通テストに記述式試験を導入することに84%が反対であるという結果が出たとのこと。ただし、個別の一般入試では、記述式を充実させることに国公立大学の80%近くが賛成、私立大学は約半分が賛成と出た。これから類推すると、ほとんどの国公立大学には記述式試験の採点の能力があり、私立大学はその能力が足りないか、記述式試験をすると学生が集まらない、つまり入学志望者の大半が文章を書けない状態であると言うことになろうか。
共通テストで記述式導入が崩壊したのは、実はプレテストを行うと、受験者の過半が記述問題の解答をしないことが明らかになったことによると思う。
コロナ・オンライン化で大学の多くはいよいよその「馬脚」を露わにしようとしている。オンライン教育では、文章記述能力がより必要になるから、そもそも文章を書けない者に大学オンライン教育なんてできない。大学としては、授業料と入学金(おまけに受験料)さえ取れればいいというのが本音だから、とにかく生徒を入れてしまう。その後でやる気のある者は教養課程のレポート提出練習で文章が書けるようになればよいと考えていると思う。いい加減としか言いようがない。有り体に言えば、現行の大学は、作り過ぎたこともあって、より多くの学生を吸収するようになり、その結果、大学教育の前提となる文章を書く能力がない者を採らざるを得ないという状況が顕現化していると言える。しかし、改めてここで最も大きな問題が、我が国の18歳の学生の大半が文章が書けるようになっていないということであることが確認されると思う。
このことは、筆者にとっても改めてやや驚きである。筆者の生徒(+ブイネットの生徒)たちは、このブログでも紹介している通り、すべて良く文章を書く者たちである。カタカムナ音読で日本語のリズムと意味の流れを掴み、抽象構成作文法、そしてダイアローグを学べば誰でも文章が書けるようになる。自分の考えを文章化することができるようになる。つまり、文章術とは、サイコロ暗算同様、誰でもできるようになることなのである。
やり方はどうでもよいが、にもかかわらず小学1年から高校3年まで12年間も学校へ通って文章が書けるようにならないとはオカしなことであるとは思われまいか。日本の学校に通って、日本語で文章が書けるようにならないとは完全にヘンなことである。文章が書けないとはダイアローグができないと言うことにも繋がる。ダイアローグができなければ主体的に生きて行くことはできない。
これがわざとなのかそうでないのかはわからないが、結果的にそうなっていることは「事実」である。そこには教育上致命的な欠陥があると言わざるを得ない。学校へ行っても文章が書けるようにならない?いや、学校へ行くと文章を書く力がなくなる?これは恐ろしいことである。文章が書けなければ、人の言うことを批判的に聞くことはできない。信じるか信じないかの話だけになってしまう。簡単にメディアコントロールできる対象にされてしまう。
天下り、既得権益の問題が絡み、するべき改善もできないのが文科省の実態であるが、今回のアンケートでも浮かび上がったこの問題の解決について、彼らが本格的に着手する可能性は低い。そしてまた、国民もそのように扱われていることに気づくことはできない。この国の将来を担ってくれる子どもたちに、学校教育で日本語文章力をつけることができない、このことに怒ることができないのは圧倒的な国語力の不足であると言うことになるのか。