安倍首相は、出生率低下を「国難」だと言ったそうだが、2019年の出生数は86万5234人と過去最低で、出生率も1、36と低下し、首相在任中に「国難」を避けて出生数を増やすことはできなかったようだ。
首相が「国難」としたのは、将来税を納める者が少なくなることと、経済に欠かせない労働者が足りなくなることからだったろう。勿論、『孟子』的に見て、人民が増えないのは政策が悪いことの証左だという観点もあるから、安倍さんばかりでなく、歴代政権担当者が出生率が下がったままであることの原因を見抜けなかった「無能者」だったことにもなる。
高度成長後期に、安い労働力を求めて女性たちに社会進出を促し、「男女同権」も歌いながら、男女共同参画社会なるものを形作ろうと考えた。おまけに少子化が始まって学生数が少なくなる可能性を見て取った大学は、積極的に女子の進学を奨励した。政府はこのとき女性が高学歴化すれば、あるいは就職すれば、当然少子化の方向に向かうことは、西欧の例を見ても分かっていたはずである。だからその時から、少子化の問題に対する対策を始めておくことが必要だったが、どういうわけか原発を初めとする他のあらゆる問題と同様に、そんなことは考えなかった。まだ「想定外」という言葉も生まれてなかった。それどころかその処方箋が外国人労働者の導入というのであるから少子化は止まらない。
それにしてもこれほどメディアコントロールに弱いとされる国民を、どうして大手広告代理店のお力なぞをお借りして多産誘導できなかったのだろうか。単なる性的刺激だけでは足りなかった何かがそこにはあったようである。
普通、子どもを一人しか作らなかった場合は、後であと一人作っておけばよかったと思うことが多い。子どもを二人作った場合でも、もう一人いればよかったのになと思うことは多い。ところが子どもを3人作ると、よほどのことがない限り、もう一人とは考えない。にもかかわらず、作る子どもの数が一人か二人に収まるのはなぜなのか。
そもそも、子どもを作る以前に結婚しない人が増えている。結婚しても子どもを作らない人も多い。それはなぜなのか。
人生で、自分の子どもを持つことほどの歓びはない、というのは「真理」だと思う。人間として生きていてこれほど意味のある経験はないと言える。
また人生で、自分の愛する人あるいは愛してくれる人を持つことが歓びであることは否定しようがない真実である。他者を愛する自分を知ることは重要である。
男女が知り合う機会が少ない。それはなぜなのか。
交際してもなかなか結婚しない。それはなぜなのか。
さらに、結婚はしてもなかなか子どもを作らない。それはなぜなのか。
「結婚なんざ、若いときの勢いでやんなきゃできねえ。歳喰って分別つけば、損得を考えちまってなかなか踏ん切りがつかなくなる」と言ったのはどの作家だったか。
寝物語に、モリエールの『女学者』(内藤濯訳)を読んでいると、第3幕第2場で、学問好きのご夫人たちに大人気のえせ学者が自作の詩を読んで大いに盛り上がった所でアリストテレスを口にすると、「女学者」たちが次々に、「プラトン」、「エピクロス」と自分が好きな古典的な哲学者を挙げて行くが、最後の一人は「デカルトの渦動論」を口にする。1596年生まれのデカルトの『哲学原理』が刊行されたのは1644年のことである。モリエール(1622〜73)が『女学者』を初演したのは1672年のことである。その間にデカルトの名はパリでは一般の楽しむ芝居の台詞に使うことができるほど有名だったのか。1672年と言うと、43年に王位に就いたルイ14世が61年に親政を始め、仏欄戦争でオランダに侵入した年である。その一方で満員のパレロワイヤルでこれが初演されたとは、世界のどこかで戦争が行われていても、スポーツ大会は大流行りという現象にも似ているか。しかもこの芝居の通底には、学問する女性は幸せになりにくいというテーゼが流れている。実際、大団円で結婚が決まるのは、学問好きではない妹の娘の方である。
少子化について書こうと思って書き始めたが、途中風に吹き飛ばされたすだれの補修などをしているうちに脇に逸れてしまった。
明日また引き続き少子化についての試論を記述したい。