思想宗教に関係なく、親が自分の子どもに望むことは何だろうか。
それは健康で幸せに生きることなのであろうが、現実にはそれは労働して糧を得ることが前提になる。
労働するとは、一般に人の下で指示を受けて働くことであるから、そこでは、指示を守り、忍耐強く責任を持って仕事を完遂する「力」が求められる。そして人々はそれによってできるだけ安定した収入を得ようとする。
「より難しい仕事をする者が富者になる」とは福沢諭吉の『学問のすゝめ』の謂であるが、彼はその前提として学問の力を訴える。難しい仕事役割を引き受けるには学問の力が必要だというのである。
ところが国家の繁栄、経済的成長を国民の労働によって目指す近代国家では、難しいことをする人の他、よりやや当たり前のことを確実に履行する人材があらゆる方面で大量に必要になる。特にこれは軍事面では最重要課題であった。
学校の社会科では、「主権在民」と習うけど、予め国家に手なずけられる教育を受けるのではそんな言葉の意味はない。
でもそれは受け入れられた。「文化的」に引き継がれた。そしてそれによって「豊か」になった。
かつて子どもの数が多く生活が苦しかった時代の親たちはどう考えただろうか。
子どもの数が減っても3〜4人はいたころはどうだったろうか。
特に優秀でもない子であれば、学校の先生の言うことをよく聞いて、授業に真面目に取り組んで字をしっかりと書いて宿題を提出し、学校の成績を確保し、より上級の学校へ進んで、役所でも民間でも安定した給与が得られるところへの就職を考えることだろう。それには学校の言うことによく従い確実に登校して行事にも完全参加することが必要だった。そしてそのころは、「気をつけ!」「右向け右!」と言うのは当たり前のことだった。
ところが、子どもが一人二人になってくるとそうはいかなくなる。しかも先行きの見えない経済停滞社会では、何が「生き残り」のために重要か見えにくくなってしまう。「学歴」だって単にそれだけでは怪しいものになってしまう。IT・AIの世の中が来ようとしているのに旧いタイプのアタマの使用を強要される教育なんて大人しく受けていられるものかと感じる子どもたちも出てくる。家族数兄弟数が少ない家庭に育った子どもたちには儒教主義的価値観が通じない。
「上の者が言うことに従う」とは、世界普遍の国家教育なのであろうが、我が国ではこの現実化に儒教思想を用いて来た。「教育勅語」はその賜物であるが、明治初頭の世の中において、人々のアタマを占める「情報」は現在の我々の100分の1以下であったのではないか。しかるに、情報の洪水状態の現代社会では、重要視したいものも周りに浮かぶゴミの山の中で見えなくなり何が正しいのかよくわからなくなる。そして、形骸化した儒教主義には限界に行き当たる。
何が正しいのかよくわからなくなったとき、人はどのような判断をすることになるのか。
教育においてよくわからなくなったとき、親はどのような判断をすることになるのか。
未来社会で生き残るとはどのようなことなのか。
こうダイアローグをせざるを得ないことだろう。
いずれにせよ「未来社会」が子どもたちの「手の内」にあることは予め決定していることなのではあるが。