筆者は最初、英語主体の家庭教師としてこの業を始めたが、幸い数学も多少できたので、やがて全教科を教える教師になった。教えると言ってもテストでの点の取り方とその対処法を示すのであるから、今考えると「浅い」とも言えるが、なぜか驚くほどの好評を得た。
大学を出ても就職せずに、おまけに結婚までしてしまって、このままこの仕事で喰い継いで行くには何が必要か考えた。
英語の指導には自信があったが、単にテストで点数取らせるのがウマいだけで(それだけで充分と言う人も多いが)、自分自身が本当に英語ができるわけではないから、周囲に自分より優れた教師がゴマンといることが分かって、この道先行き暗いと判断した。事実、事務所で上野先生の授業を聴いて、「こりゃ叶わん」と止める気を強くした。
数学は、高校までは得意ではあったが、大学へ入ってからは全くやっていないので、先のことまで繋がる体系的な視点を持った授業ができないことにもどかしさを感じる。それに数学を教える理系出身家庭教師もゴマンといた。
でも気づいたのである。ここに国語ができるようにする個人指導者がほとんど存在しないことを。
と言うわけで、徐々に国語指導に比重を移し、やがては個人教育相談以外の仕事は国語指導専門になった。
長くなりそうなので端折って書きたいが、そもそも家庭教師のバイトをしながら本を読み文章を書き旅行して来たのであるから、これは学校国語教師たちの真逆、塾の先生たちでもそんなのは滅多にいない。それに、長年教えていて知れたことだが、国語ができるようになる子ども、と言うよりも日本語了解能力が高い子どもはすぐに全教科の成績が上がるということである。ある教科の学習ができないのではない。その教科で使われている言語ができないからこそその学習ができないのである。
これは考えて見れば全ての教科学習に当てはまる。全ての学習の根本に、日本語による了解能力の問題が横たわっていることは明らかなことである。
すると、それに必要なのはどのような指導であるのか。本がスラスラ読めて理解できる子どもを育てるには何が必要なのか。またそうならない子どもには何が不足しているのか。そしてこのことの改善のためにはどのような教育環境設定が必要なのか。
言うまでもなく、逆にこれは学校教育が与えていないからであると考えることができる。したがってそれは、学校教育が行ってはいないことを見つけることになる。そしてそれを徹底、追及して行くと、そこに日本語音読の徹底した一音一音の発音の指導が浮かび上がってくる。
筆者の音読法の授業を子どもと一緒に受けた親たちは「どうしてこれを学校でやってくれないのでしょう」と口にするが、それは実はこれがやろうとすれば誰でもできる簡単なことだからでもある。
さらに、我が国の国語授業が絶対に与えないもの。それは、古典文の時代を追っての音読である。日本語の変化の歴史の教養である。
「教養」と言っても大したことではない。古典文の最重要部分を古い順に声に出して音読するだけである。
そして、これこそ我が国の教育が決して教えないもの、それがカタカムナである。
<カタカムナ第7首>
「マカタマノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ」
は、『古事記』冒頭の、
「天地初めて別れしとき、タカマノハラになれる神の名は、アメノミナカヌシの神、次にタカミムスヒの神、次にカムムスヒの神、この三柱の神は、皆独り神となりまして身を隠し給ひき。」
に、明らかに先行する文献である。また古事記に現れる神の名のほとんどはカタカムナ文献にあるものである。
ゆえに、カタカムナを音読した直後に古事記を音読すると、そこで古代日本語との断絶のギャップを回復することができるはずである。
後は、『古今集』→『枕草子』『源氏』『大鏡』など平安古典、『方丈記』『徒然草』と鎌倉古典、西鶴、芭蕉、馬琴と通って明治まで読めば、これ以上に子どもの国語力向上にとって良いものがないソフトが与えられるのである。
他のことはすべて後回し。とにかく子どもにまず入れたいソフトはこれである。
でもこれがなかなか広まらないのはなぜか。