午前4時30分ウルトラマン起床。
朝食→瞑想と済んで、ただ今5時15分。全員が机に向って学習開始している。
日一日とアタマを鍛える習慣付けが深まり、ヒシヒシと「合宿」の手応えを感じている。
高校2年生のHは一人っ子長男で、小学生の頃よりV-net焚火と合宿に参加している生徒だ。
これは、V-netの生徒に「相応しい」内申点の全然取れない高機能超多動症であったが、今は自分を使いこなして学習に集中している。
これがかつてのウルトラ多動症・ゲーム依存症とはもう誰も思えない。しかも自らデバイスを一切捨てて参加している。筆者は密かに、いたずらに個性の追求をする必要がない(最初からある。ゆえに学校生活が困難である)この子の成長を強く喜びに感じる。
ところが、京都から参加の中1H君は、これを上回る超ウルトラ多動症である。しかもこの子は異常なまでの「鉄オタ」で、新幹線などの車内放送、駅の案内の放送などをそのまま覚えていてのべつ幕無しに口にする。
これをかつてのウルトラ多動症から見ると、その行動が過去の自分と照らし合わせてよく理解できるらしい。しきりに過去の自分と比較して恥ずかしがると同時に大笑いしてこれを受け入れる。
「V-netではイジメがない」とは生徒たちの言葉である。多くの者が何かしら自分には普通ではないものがあると自覚している。そこでは、「イジメ」の変わりに「笑い」があり、突出した行動を咎めず眺めて面白がると言う風調がある。もちろん、いささかぶっ飛び気味でくそ真面目の高1N君からすれば、「理解不能。ついて行けない」との叫びになるが、「理解できない」とは「存在を認めない」ということではない。存在を認めた上でこの言動を理解することができないと言うニュワンスである。
自己の不快・ストレスを他者を攻撃することによって晴らそうとするのは人間的にナンセンスである。これがわかった者は、他者行動を受け入れてそれを「笑い」に転化することが本線になる。この時、過去の自分についての「笑い」を持つことでやや年輪を重ねた「大人化」が認識される。瞑想時のアドバイスに手応えを感じる。
一方周囲のことを全く考えない京都H君の行動は止むことがなく、これを年齢の近い者は笑い転げて愉しむことを覚え、これによってH君は攻撃されることや傷つけられることがなく、気がつけば思ったよりも長時間机上学習を連続してくれる。それにしてもこの子の通う私立中は、基礎を重視した宿題が実に多い。しかしそれが皆、教科書会社から買った冊子ばかりであるのはややもの足りないところでもある。まあ学校経営なんてその程度の次元か。
しかし、中2N君の通う東京私立中からは、絶えずオンラインで課題が出される。これも「上」からの指示あって教師たちがやっているもので、深い教育的な考察があるとは言えないものが多い。紙の宿題もあるが、レベルも高い上に量も多い。
これらややナンセンスな宿題を「労働」としてではなく、「能力開発」の材料として使用するように指示した。
今日のお昼はぶっかけ天ぷらうどんなので、大量の大根おろし製作が必要である。
満月経過して波動の低下を「脱力」ではなく「精神的安定」に切り替えるワザが必要である。