イメージする脳の使い方について、あまりに多くの教師が無知であるために、少なからぬ子どもたちがアタマを悪くされ続けている。
良いところを見出して伸ばそうとするのではなく、自分の言うことに従わさせることが「教育」だと思いこんだ教師たちは、その「仕事」を貫徹するために、感性に優れた罪のない子どもの心を傷つけ、あるいは本来顕現すべき能力を捨象化して無意味なアタマの使い方を習慣化させ、未来的に「無能」の状態に追い込んでいることに自覚的ではない。それどころか、彼らは何とかして扱いにくい子どもを「異常」と捉え、そうした者を集めた施設に送り込もうとすることで、自らの「罪」を隠蔽しようとしているかのようにも見える。愚かなことであるとしか言いようがない。
こんなことをここに書くのは、このところ学校教師のワケのわからぬ思い込み指導によって、能力的あるいは精神的にダメージを受けた子どもたちの「回復」の手伝いの仕事がいよいよ多いからである。
つぶさに子どもたちの話を聴いていると、はっきり言って憤懣やるかたないが、怒ってもしょうがない。それらはひょっとしたら自覚のない、多くはたまたま無明な女性教師たちなのであり、そこにあるべきなのは哀れみの心でしかないのかもしれないが、それよりも彼らに相手される子どもの方がもっと気の毒なことも事実である。
「上」からの指示もあるのであろうが、オンラインを使っても無意味な提出作業を過剰に求めるアホらしさ。ここでも子どもたちは相手を選べない「悲劇」に遭遇している。
こちらから何かをイメージ想起しようとするときのアタマの働きと、課題として与えられた紙の上の学習で知識吸収に集中作業する時のアタマの働きは真逆である。
このことはスマホ画面の操作をしている子どものアタマの働きが、焚火で自ら木をくべながらそれが燃えるところを眺める時のアタマの働きと真逆であることと同様である。
でも彼らはそれが分からないのである。無明なのである。
私たちが、たとえば自分の身近な大切な人、母であったり、父であったり、兄弟であったり、心を寄せる人であったりする人の顔や姿を、自分のアタマの中でイメージ想起しようとする時のアタマの働き、自分の好きな食べ物や美しい景色を想起しようとする時のアタマの働き、さらには、自分が食べたいものを想起してそれをどのように調理するかと想う時のアタマの働き、あるいは静かに一人ある時何かを作ろうとする時のアタマの働き、明らかにそのようなことをするときのアタマは、机上でテキストやプリント学習するときのアタマの真逆である。だが、これこそ未来的に役立つことを想起する元になる力なのである。そして、子どもからその力を奪わないようにすることがこれからの教育に求められていることなのである。
大切な知識を覚えることは必要かもしれないが、必要以上の知識吸収訓練によって自ら想起する習慣が奪われることは、その人間にとって「悲劇」である。そして、この自ら想起することの減退がこの社会の衰退を招いていることは、先進的な識者も知悉するところであろう。また、自ら想起できないのであれば、それは「家畜」か「奴隷」になることを意味することになる。
未来を背負う子どもたちを、「家畜」か「奴隷」にする教育。
優れた感性が認められず、良いことを自ら思いつこうとすることが否定され、ただ言うことを聞いて座って知識吸収することを求められる。
それに従わないと「異常」の烙印を押す。
そんなことがこれからの社会を生きていく子どもたちにとって無意味なことは分かり切っている。
密室で子どもが相手と思って、気を緩めて自堕落な対応・指導をしている自覚がない教師は、全て時間の問題で抹消される、「破壊的イノベーション」に無自覚な哀れな存在の代表であろう。
可哀想だが、子どもたちの方が彼らよりもっと大切なので、オシマイだ。
コロナによる学校休止は、人々に既成の教育について考えさせる「余裕」を与え、ダマされ続ける人たちが「部分」に縮小されることにより、その破壊的イノベーションを決定的なものとしつつある。
そこで教育産業は、「追い風」「稼ぎ時」として、本格的な「攻撃」の敢行を開始しよう。
彼らは言う。「先生方のお仕事をサポートするために」。
そしてその結果、既成のアタマから脱することのできない教師たちは、新たな「適性審査」を突きつけられざるを得なくなることだろう。
「哀れ」としか言わざるを得ない。