「メディア」の虚構性について | JOKER.松永暢史のブログ

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コロナ下で大きく判明したことの一つに、「メディア」と言うものが、いよいよ信頼に足るものではないということがあろう。

「メディア」とは、人々をある決定された「意志」の下に、それができるだけ多くの者に伝わるようにしようとする「演出」を行うものであり、また同時にそこに「利益」を生み出そうとするものであるから、その末端では、「真実」のありのままの伝達ではなくて、やや大げさな言い回しで誘導して、「ウケる」ことこそがその中心的目的にならざるを得なくなってしまう。

そして、逆にそのことがこうして徐々にリアルになれば、そこに、「メディア」を「メディア」の利益になるような対象とする行為を差し止めようとする意識が当然起ることになる。これは「メデイア」にとって、「死」を意味することに繋がる。

サンケイはともかく、朝日新聞トップは「言葉を尽くして」平謝りである。そこにはとりあえず謝っておくしか方法がない。

あくまで「部分」だけが悪いのであり、「全体」が悪いとは絶対に思わせないようにするしかない。

それは「メデイア」が「あそこ」を隠すための最後の一枚をはぎ取られないようにするための必然的行為である。

そして、「贈賄」は「収賄」より罪が重い。強く責められるべきは「贈賄側」である。

「ヒツジ」をダマそうとしていたことがバレれば、「オオカミ」は立つ瀬がない。

このことから必然的に、「メディア」とは、オレオレ詐欺をする者たちと同様、ダマされやすい「ヒツジ層」を主対象にしているものであったことが浮かび上がってくる。「啓蒙」より「洗脳」を目的としていたことが明らかになってしまう。

しかし、その対象となる者は「メディア」を「虚構性の高いものである」とは思えない。

誰かが誰かを引っ掛けるためにやっている「ルアー」だとは想像できない。

自身の「善良さ」から、「いくらなんでもそこまでして人をダマそうとすることはない」と信じ切らざるを得ない。

これは「八百長」と思われるスポーツショーの対象者と同じ、もしくは公営ギャンブルやパチンコの対象者とも同じ。

ある意味、「楽器」や「読書」ではなくて、「ゲーム」やネット情報を選択する者と同じ。

「分かっちゃあいるけど、止められない」というのは許される。

彼らは我慢して長時間働かされている「労働者」たちなのであるから。

でも、コロナ下で時間ができて、かく様に、より「強者」がより「弱者」をダマすことにより、利潤を上げようとし続ける現実構造に気づく人も多くなってくると、既存の「メデイア」が未来的に「無意味」なものになってしまうことが暗示される。

しかし、そんなことはない。いかにそれが敏捷に動いたとしても、先を読んで活動するオオカミにとって、シカは「獲物」に他ならない。自らの糧を得るためにオオカミたちは必死である。だが、だからこそそれを知るシカは、「獲物」にされないように絶えず注意しているのではないか。

赤ずきんちゃん気をつけて!

「善良」であることは素晴らしいことかもしれない。

人間存在としてかけがえのないことかもしれない。

しかし、その意識に埋没していると、そこには何と、そうした人を対象にする「ルアー者」が絶えず現れることに気がづけない。

そして、「教育」も、「意識」が浅い人たち、「意識」の低下した人たちから「利潤」を上げようとするシステムに他ならないことになる。そこでは「意識」を与えると終わりになってしまうから、それは決して与えないようなレトリックが用いられる。

そして、そこにあるのは、意識の有り様と言語能力の「落差」にほかならない。

リベラルアーツ6日、20日と再開講する。

テキストは相変わらず『論語』だが、これをできるだけ早めに終了して、『孟子』の会読に移りたい。

微力ながら、意識を深める方向性の教育を貫徹したい。