今日はやや暑かったが、またしても風の快い佳き夕べである。
西方に小さい三日月。
「休日」であるが、例によって、朝から様々動きっぱなしである。
「Gardening」は大きいところはほぼ「終了」である。
小松菜作付け。コスモス種まき。
後は植物が育つのを見守るだけ。
昼食を、訪問した母宅で取って、買い物して帰宅。
クロッカス球根収獲し、そこに新たに松葉牡丹と日日草。
再開された「Loft」に行って、整髪料と手帳を買う。
「土屋商店」で桜えびを買う。
マスクをしていない人1%。
どうして日本人はこんなにも「真面目」かね。
帰宅して、再度伸びたプランターミツバを全部刈り取って、これを茹でて胡麻和えとかき揚げを作る。
吉祥寺サンロードを歩いていると、商店街BGMに「チェット・ベイカー」がかかる。
極めて平和で安全としか言えない街模様。
だから逆に、何かが産まれそうな緊張感がそこには感じられない。
みんなボケッとする自由を味わう風情。
自分にヒマな時間が与えられたらどうするか?
誰でもどうせなら何か愉しいことをしようと思うことだろう。
しかし、実は何か余計な面白いことを思いつく能力は、「学校教育」によって失わせられているのである。
そんなことは必要のないことなのだと「洗脳」される。
これを理解できなければ「特別支援学級」が待っている。
人々はヒマな時に何をするべきか想起できないように教育されている。従順にまず言われたことに従う訓練を受ける。
そして、それを教える人も受ける人も、それが「奴隷化」のための仕組みであることが見抜けないのである。
Switch on TV,Game,Net,sns!
人々はクリックした瞬間に失われることに自覚的ではない。
自分が本当にしたいことを想起する機会を奪われていることに気がつくことができない。
誰も「ギャンブル依存症」を笑うことはできない。
それはヒマな時間に何をするべきか自ら思いつくことができないようにされた「教育」の結果なのに、それに気がつくことができないほどうまく「洗脳」されてしまっている「結果」なのだ。
自らしたいことを想起できないとは、そこに垂れ流される「ルアー」を喰うと言うことである。
金を失うリスクさえ犯せば、あなたは誰からも命令を受けない自己決定の「経営者」。
そこには、儲からないことを相手がするはずがないと言う「想像」がない。
それでもかまわない。とにかく「労働」によるストレスを「解放」するため。
自ら自分のしたいことを想起してそれを実行に移すことーそれができればその人にとってその「一日」は、「充実」したものになったはず。
それがスウィッチを入れた瞬間に、クリックした瞬間に失われる。
「ルアー」に引っかかる。
そのことに自覚的にならないように教育する。
「教育」されてしまう。
自分がやりたいことを求めるのではなく、さも自分が食べたいような、目の前を泳がされた「ルアー」に引っかかってしまう。
そこには、「啓蒙」の逆がある。
しかし、もし「愚か」であれば、そのことに腹を立てることもできない。
だがしかし、よく考えて見れば、そんなことは有史以来ずっと行われ続けてきたことである。
分からないやつが分かろうとすることを利用する。
「教育」とは、ある意味そういうことだったのである。
被支配階級を育むことが教育のその目的である。
あたかもオオカミがバカな羊をダマして食べてしまう世界観のように、自分で自分のある状態を客観化することを捨象するように教育された人々は、他との比較によって行動の「真理」が得られると錯覚せざるを得ない「善良」な人たちは、永遠に生産され続ける「慈悲」の対象となるのである。
もうそろそろ、このブログに書いているようなことは、限定的な読者だけを対象にするべきなのであって、「オシマイ」にするべきなのかもしれない。
バカな自分が忌まわしい。
「冗談」で書いているとしか言いようがない。
BGMは、もちろんChet・Baker。
おやすみなさい。
教育について語るyoutubeはこちら
https://www.youtube.com/channel/UC4Bu8Sh9rVvxHCsw51nJgDA/videos