元大学教授Pは語る。
—「メディア」が劣化してくると、それが「大衆」を相手にしているからこそそうなっていることが実感されて興味深い。
ここで「大衆」とはどんなものであるかを考えると、少なくともメディア以上には敏感ではない存在ということができる。
「大衆」は自分では考えない。自分では判断しない。いやいや自分では感受しない。だからこそ「メディア」があると言うことができる。自分で考えることができないとは、自分で判断することができないということである。そしてそのことに対して自覚的ではない状態である。
「メデイア」がその「落差」で、最大限の利益効果を目指すことになるのは必然だ。人々は、ボケッと道を歩く。店に並ぶ。買い物をする。家でテレビを見る。スマホをいじる。ゲームをする。なぜかって、それは他の人もだいたいそうしているから。そして、他のことを思いつけないから。
判断力の前に、注意力がない。緊張をしない。「注意」することをできるだけしないで済まそうとする。このアタマの状態の「大衆」に対して、「資本主義」社会では、それに積極的に取り組む者たちにとっては、そこで「慈悲」の念を起こすのではなく、こんなにアホなんだから「カモ」にすることは当たり前だと思わなければ「勝者」にはなれない。
金が欲しい。それには、分別力判断力がない連中からムシり取るしかない。
非犯罪的な「犯罪」。ひょっとするとその象徴が「政治」なのかもしれない。
やつらは「バカ」で、自分から生産物を作って流通させることなんて考えもしない。
分けも分からぬ労働をして、そして余暇時間に娯楽で金を消費する以外にすることがない。
分けも分からず働いて、疲れ切った余暇時間は、自分でしたいことを問いかけないで「娯楽」で過ごす。
働いてヒマを持て余すことがいったいどうしてなのかを考えることができない、何のためにただ一回の人生を得ているのかを自覚しない「アホ」な連中、それを「カモ」と見做すところに、この資本主義社会の紛れもない「方向性」がある。「お客様は神さま」なのである。
そうでしょう?私学を代表する大学の学長さん。
そもそも、「バカ」を対象にしているからこそ、総長以下生き延びて来られてきたのだから、いくら学生運動の授業料闘争の記憶があったとしても、またすでに追い込まれてもいるのかもしれないが、わざわざここでそれを自分からやると宣言するのは「大衆」を舐め過ぎ。父親の田中清玄氏ならなんと言うか。
バカダバカダ、バカダバカダ、バカダバカダ、バカダ。
この「芝居」の前には、紺碧の空が泣くよ。日輪も嘲うよ。
交渉相手にするべきは「学生」ではなくて「政府文科省」であろうが。
言うまでもなく、このブログは「冗談」で書かれている。