学生運動とセンター試験についてー2 | JOKER.松永暢史のブログ

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学生運動は、その下の高校生たちの間にも広がった。これも教育体制側の古いアタマに強い反感を持ったもので、麻布、灘、日比谷、西といった進学校を中心に拡大し、運動が起っているところはレベルの高い学校と目されたこともあった。どうも学生運動は学力と関係しているらしい。それはなぜか。そしてこの頃は、およそ知的思考とは左翼的な思考であると多くの人が思っていた。唯物史観が唯一の史観だと疑う者はいなかった。

筆者が高校に入学した72年は、その運動が収まった直後で、その「残滓」として、「女子だけの家庭科教育は差別」とする活動が垣間見られたりした。こういうことは、後のウーマンリブ運動に結びついて行ったのかもしれない。

驚いたのは、制服がないことと、校則がないことであった。学校の雰囲気は恐ろしいほど自由で、何をやっても許されるムードで、クラブ活動や学園祭活動が生徒会活動同様に盛んに行われた。音楽をやる者も演劇をやる者もたくさんいた。もちろん、飲酒、喫煙、麻雀、パチンコと大人がすることは何でもして良いと思う者たちもあった。彼らは青春を謳歌した。しかしこの結果、6年生ではない都立高出身者は、浪人する者が多くなり、東大進学者数もどんどん落ちて行った。遊び人の筆者は、現役東大合格者の名前のほとんどを知らなかった。彼らは周囲のムードに流されずに身をかがめてストイックに勉強し続けた者たちだった。そして、こうした人たちが後の官僚やエリートになって行ったのである。

さて、1979年、先行した試行テストに続いて共通一次試験が本格導入された。筆者は2浪中であったが、この試行テストが始まることを知って、これ以上浪人生活を送ることに終止符を打つことにした。

今思えば、そのことについては実に多くのことが浮かび上がってくるが、この時はまだ、その翌年にアフガンで死ぬ目に遭う旅行に出かけるとは思っても見なかった。

だが、ここに一つ記すべき重要なことがある。筆者は自分流に言えば少しアタマが悪いかオカしいので、ふつうの勉強の仕方では成績を上げることができなかった。成績を上げるには、自分独自の学習法を生み出さなければならない。たとえば、1浪中に国語偏差値を30以上上げた古文の全集メッチャ音読読みなどは、今の仕事にも通ずるその一つである。その間に得意だった数学にそれを行わなかったのは今にしても残念なことであるが、もう一つの苦手の世界史の克服方法を想起した。筆者は記憶力に欠陥があるので、物事を素直にそのまま覚えることはできない。何回か繰り返せば覚えられるが、答えを聞いてああ確かにそれはあったと思っても、自らそれを想い出すことはできない。しかし、自分は他者よりも知識がある面もある。それは記憶によるものにちがいない。してみると、自分の暗記回路は人と異なっていることになる。で、自分は文脈がある場合には覚えられる。だからするべきことは本で読んでしまうことだ。こう考えて、たまたま歴史好きの父の本棚にあった中央公論社の世界の歴史全16巻を読んだ。そしてその結果、世界史の偏差値は大きく上昇した。

さて、その世界史全集中の一巻に、中国明清時代の歴史の解説があり、そこに書かれた清朝第5代雍正帝についての記述に強く引きつけられた。正確には想い出せないが、この世界史上稀に見る天才的独裁君主雍正帝は、60年以上の治世を守った名君康煕帝の跡を継いで45歳で帝位に就くが、そのアタマの良さ、特にその言葉の鋭さには驚くべきものがあった。そして、この雍正帝が、最近漢人の官僚がアタマが切れ過ぎて扱いにくいという問題について、それなら科挙試験をレトリックがキツくて膨大な暗記量を必要とするものにすれば良いとしてそれを実行して成功したと言う。そこでは、出世のために過重なレトリック読みと暗記学習をして発想力は乏しいが命令には正確に従う「忖度型」の官僚を集めることができたと言う。この記述は受験中の我が身にとっていささか重かった。そこには、無理に勉強するとアタマが悪くなる可能性が示されているのであり、また国家側が自分たち側に使いやすい人間を作るために試験というものを利用することが書かれていたからである。共通一次試験の導入はその証左ではないかと思ったのである。

旧版の中央公論社の『世界の歴史』は最早手元にはない。実家にもないだろう。自宅の本棚にあった宮崎市定全集から、一巻『雍正帝』を引っ張り出して読んでみたが、そこには雍正帝の科挙試験についての記述はなかった。別の一巻で『科挙』の項にも目を通して見たが、その記述はない。あの記述は誰の手によるものなのか、今度図書館で調べたいと思う。