「選択」するべきころなのね | JOKER.松永暢史のブログ

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新型コロナウイルスについては、「科学者」ですらはっきりわからないのであるから、「素人」の我々には何もわかりはしない。

ただわかるのは、このまま広がったら運の悪い弱い者からたくさん死ぬということだけ。

そして人とは他者のこと以前に自分のことを考えるもの。

そうでなければ、その認識も幻になる。

筆者にあっては、その認識は、ほぼ「はしか」や「おたふく風邪」と同じもの。

でも、非常にうつりやすい。

免疫のない高齢者にとっては「恐怖」そのものであろう。

「旧約聖書」ヤーウェの風。

それは「命令」に従わない者が「抹殺」されることを暗示する。

種の入らぬ純粋なパン。

でもこれから免疫を作って生き残って行く若者には関係ない。

自分がもし若ければ、きっと、弱い者は死なざるを得ないと思ったことだろう。

弱い者は死なざるを得ない!

自分で「生」をつかみ取ろうとし続けなければ、「偶然」に対処できて生き残れない。

それは全人類に共通したことだ。

だったら、死なない「強い者」にならざるを得ない。

でも、それはどういうことか。

「油断」をせず、とにかく感染を避けて引きこもることか。

引きこもってその「情報」ばかりを享受することか。

それとも、その機会に、何かを生み出そうとすることなのか。

生きていることは消滅するが、生み出したものは消滅しない。

見たことのない、経験したことのない「現象」が目の前にある。

「現象」がなければ、そこに「文学」も「芸術」も存在しない。

この事実!

わからないこと。

どうなるかわからないこと。

自分も死ぬかもしれないこと。

このような時にこそ、生命表現活動が発生・現象する。

最後の「唱い」の可能性がそこにある。

あることになってしまう。

そしてそれは、このようにネットで保証されている。

「ひきこもり」→外に出れない。

するべきことは、「情報吸収」ではなくて、よりレベルの高い心情表現である。

「コロナ」でオカシくなる人と高まる人との違いがそこにある。

「ヒマ」とは文化的にチャンスに他ならないことは、「歴史」が証明している。

「危機」とはいつにおいても、「次元」を高める機会である。