「情報吸収」を主たる習慣として、それを無自覚省みずに、自らの「思考」あるいは「表現」の追求を第二義的にするとすると、そこでは、(意識的無意識的に関わらず)、「現象不満足な実態への懐疑」がやや現象しはするが、それもふつうは捨象されて、「おめでたい」自己の実際存在と自己の存在要因の「認識」で、「春の花粉」などを喰らってイチコロならざるを得ない。「曖昧」になってしまう。
もっと、分かりやすくはっきり書いた方が良いのか。
しかし、ことは言わば「韜晦的」であるべきはずの対象である。
でも、歴史的にも考えて見れば、「世」はこのことの繰り返し。
わかるのは遥か時代が経ってそれが「過去」になるときだけ。
わからない人がいるからわかる人がいる。
この「事実」にたまらぬ者たちが「文学」や「芸術」に親しんで「溜飲」を下げたのか。
あたかも萎える、縛られる、主体的でなくなる。これは全ての人間としての生を受けた者の「宿命」である。
しかし、その「反対」は、いかにも当然の如く、「追体験を導く心境的好奇心」、「心情表現を稼働させる環境感受」を受け入れることに他ならない。
そして、それは、智慧ある者によって発起される「意志」である。
「エネルギー」をコントロールすることができる「個人」によるものである。
命を賭してでも実行するべき追体験がある。
後戻りができない快感感受に抵抗できない自分がいる。
誰もが、予め予想できないほどに自己が能力伸長をすることができることの快感の伝授。
あたかも険峻な山に生えた植物の芽が数十年を経て大樹に達するが如く、自己のこの宇宙唯一の存在可能性に、太陽エネルギーによる「ロマン」を添加して、思いっきりそれを実践させようとする。
それは、「偏見」、あるいは「過去価値観」によって、「妨げ」を受け続けるかもしれない。
しかし、「コロナ」どころか、「時間」は語る。
「世の中」は変わる。
どんどん世代交代はし続けられる。
そして、そこでは、絶えず「カシコイ」方向性が選択し続けられる。
この世にたった一度の生を受けた我ら「生命体」が、何をしてその時間を過ごすのが正しいのか。
何こそが、「存在」に関する最大限の快感を認識させるのか。
改めてその「問いかけを」来たる「スパームーン」でも見て考えるか。