旅の感情の印象で一番大きなものは、そこに現れる人々の「存在」である。
自然があるから人がある。
そして、人があるから自分がある。
自分はなぜその「旅」を行うのか?
それは、単に、今ある、「デスク」と「仕事」から離れるためか?
そうなのか。
いや実はそうではないのではないのか。
予想もできない人々との新たなる対面。
自分は予め「予想」のできない人々たちとの「反応」を期待し、その予想以上の「反応体験」をする。
誰でもみんな生きている。
労働し、「活動」し、「表現」している。
何が正しいかなんてわからない。
だからこそ、そこにあるのは、個人の「選択」。
選んでいるのか?
自分が最も楽しい方向性を、
自分が最もオモロい方向性を?
旅をする。
人に逢いに出かける。
そこには「情報」ではない『情報』がある。
昔、思ったことがある。
男として、命の保障と、次の行動の選択の自由を与えられれば、それで、文句なしに「幸運」であると。
もっとオモロくなること。
もっとオモロく子どもたちを導くこと。
それはこの最上の音読法を広めることに他ならない。
そう、改めて「確信」した旅だった。
賛同実践者に感謝する。