国が本当にその発展を願うなら、子どもたちが我々より賢い存在になるようにしようとすることが「教育」であるはずである。
高大接続システム改革の失敗、公立学校教育の無意味化、そして「崩壊」。私立も、その私立に入れようとする受験教育も無意味化する。
これまでの通り、資本主義的社会的な「儲け」に関係ないこの「対策」がなされるわけはないのであるが、そこでは教育において、子どもを賢くすることが捨象される。
知的能力は生まれつきだから努力することは無意味であるという言説があるが、それを言うその人たちはいったいどのような教育を受けることによって、その「生まれつき」の能力を減退させることがなかったのか、そのことをこそ語って欲しいものである。
あたかも、決められた環境と土壌で最大限に良い作物収穫を目指すように、子どもに可能な限り良い教育環境を与え、その者が持つ潜在的可能性が開花するようにしようとすることこそが教育の真のあり方なのではないか。
40年以上に渡り、教育なるものを職業にして見守り続けた結果、そこに敢て絶対的に捨象されていることが、能力の伸長=アタマが良くなることであることは明らかだと思い至る。この国の教育は賢さより、忍耐や隷従性を優先するのである。
「教育」は子どもの能力を伸ばすことではなく、「上」の言うことを黙って聞く「洗脳」を心がけているものに他ならないことがわかる。そこでは最早、「儒教思想」もクソもあったものではない。そして、そのシステムの下で、政治家も、文科省も、「学校」職員も、そして教育産業も食べる仕組みが我が国の「教育」の真の姿であった。
現状自分たちのことしか考えない。未来に借金を付け流すのはしかたがないという信じられない考え方。
ここでは、繰り返しになるが、子どもの能力を伸ばすこと、つまりアタマ良くすることが捨象された教育が続けられていることが暗示される。いや、その「視点」が、どうやら私ごとき少数を除いて意識されなかったのである。
子どもにいつまでも伸び続ける習慣を持たせる。これを捨象すれば「教育」ではない。「洗脳」でしかありえない。
それは小学校入学の時点で忘れ去られる。
しかもその後の「受験勉強」で完全にぶち壊される。
何も知らなくて目の前にあることを「当然」と受けとめざるを得ない子どもたちにとって、これほど残酷なことがあろうか。
これから伸びていくはずのその時に、能力伸長より「隷従」の正しさを叩き込まれるのである。
今ここに書いていることは、現状ではとても理解されない。
いつも通り、後10年ほどすると明らかになる。
いや「シンギュラリティ」が近づくから、意外と早く5年くらいか。
しかし、未来を形成する子どもたちには「直感」がある。
そして、その「直感」は、バカであることを自覚しない大人たちを、過去的無意味人として捨象する。
つまり、「教育」は、大人が子どもにバカにされるために(あるいはバカにされないために)「現状維持」しようとしているものであることになる。
いくらなんでも「バカ」過ぎまいか。
このブログは、当然の如く、「冗談」で書かれている。