なんちゃって | JOKER.松永暢史のブログ

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前にも書いたが、筆者は読みたい本はアマゾンコピペして西荻のナワプラサード書店で注文購入している。

このところ、安冨歩氏の本を次々に買って読んでいたが、それもすでにあらかた読んでしまった。

他にも「読み差し」は山とあるが、手頃なヒマつぶし本がないので、正月には困ることになることが予想される。

そこで、久しぶりに若い頃に良く読んだ文芸誌を西荻の本屋でいくつか買って来た。これならヒマつぶしに良いと急に思ったのである。

しかし、それはつまらないものの集合であった。特に若手の作品は、5行以上読み進めることができるものは、わずかしかなかった。リズムと意味進行の両方が悪い。どういうつもりであろうか。「冗談」ではなく「作品」として提示する場合、そこで得られる些少な金銭以上に「恥」をかくことは多いのではないのか。それで「平気」なのは、単なる「寝小便垂れ」であり、「芸術家」を名乗る資格がないことに自覚的ではない存在である。

そこには一応、世代広く、作家たちが丹誠込めて書いたと思われる作品が並んでいたが、面白くなかった。もちろん読ませるものもあったが、それでも面白いと思って読めるものはごく一部だった。

彼らは「浅い」のである。そして世間が浅過ぎるゆえに、教育官僚同様、よりレトリック力の劣るものは、テレビ・ネット同様、下らないものを判断することはできないという「判断態度」に出ているように思える。これは、ある意味で、「アソーさん」や「アベさん」の視点と同んなじである。真面目に「資本主義」しない者は究極的に「バカ」であるという思想と同様であると思われる。教育世界ばかりではなく、文学世界ですらさえも、「バカの存在」を前提にする差別思想によってこの世は成り立っているのである。

こうしたことを嘲笑うことこそが、「文学」の本来の役割と思うが、文学が「真面目」になってどうするのかと言いたい。真面目ならば、「文学」をすることが矛盾することがわからないらしい。

まあそんなものなのかもしれないが、とにかく書き方がオモロうない。イメージが共通的でバカらしい。過去にもそう感じて文芸誌を読まなくなった記憶があるが、それはいったいどうしてなのだろう。実は編集者が「バカ」なのではないのか。ここには高大接続システムと通底する自分たちを「知識人」と思いたがる「症候群」の「失敗」があるのか。まあ「材料」が集まらなくては、建築のしようがないのは事実だなんて記述すると、『大波小波』の「老人」の仲間入りか。私は彼らにも全く共感できない。そこには優れた芸術性を汲み育てることができない人たちが無自覚的に存在するのか。あえて断っておくが芸術判断と学歴性は何の関係もない。

自分が「時代」のモードと合わないことはかねてよりよく自覚している。「センスがない」と言われればそれもそうと認めざるを得ないのかもしれない。おまけにカタカムナ、名文古典音読ばかりしているから、自分のことは棚に上げて、多くの現代文に違和感を覚えてしまうのも自然なことなのかもしれない。終いには自分にとっての「日本語」ではないもののように感じられてくるから逆にこちらがオカしいとも思えてくる。でもそれらはすぐに消える去るものたちに違いないのである

昔、マンガを音読したことがあり、その結果、マンガを愉しめなくなった覚えがある。本を読む時も、とかくアタマの中で音読するから、すぐに違和感を覚えてしまうのかもしれない。

全ての作品には「意味」があるはずである。

「センス」がある。

「高まり」への指向があるべきである。

でもそれは、抽象化・「象徴化」すれば、如何にオモロいかと言うことである。

読んだ瞬間に勃起して射精してしまうことがあり得るように作られた作品。

その「サービス」を了解しない者は、あたかも筆者同様、芸術家を名乗る資格がない。

そのことへの自覚がない者たちを世間が優しく見守ってくれるからやっていられると見なすのは「芸術家」としては当然失敗である。

以上当然の如く、このブログは「ズルい」という言葉を否定するところに意義を感じて「冗談」で書かれている。

バカにされていることに気がつかない人はこのブログを読むべきではない。

なんちゃって。