読み書き、暗算パズルができていれば、中学に入って自分から勉強したいと思った時にどんどん学力を伸ばすことができるというのは筆者の持論である。
問題はそのモチベーションは何によるのかということだ。
明治維新前、明治維新後、第二次大戦後、世の中全体が発展して行こうという気概に満ちていた時代は、社会の雰囲気からそのモチベーションを得ることができた。
第二次大戦後半世紀を過ぎて、奇跡的な連続経済復興を遂げて豊かになったと同時に、バブル崩壊後の長期経済低迷で社会にモチベーションは求められなくなった。
たとえば、経済的に貧しい家庭で、なんとか学の力によってこの状況を抜け出そうと思ってものすごい努力をする者はあるだろう。だが、経済的に貧しいと言っても、昔のように食べ物に困るほどの極貧状態は、少子化社会では起りにくいから、貧困が学へのモチベーションにはなかなか繋がらない。
幕末のように、国家の緊急状態にあるから、国土のために必死になって頑張ろうなんていう考えも湧かない。
あえて言えばより豊かな暮らしを得るためということになるのだろうが、それは大きなモチベーションになりうるのであろうか。
「やる気にさせる」ことを売り物にする塾もあるそうだが、それはやる気にさせているのではなくて無理矢理やらせているだけなのではないだろうか。
他者との競争—これはモチベーションになり易い。でも本当は自分が自分なりに伸びるようにすることが正しいのではないのか。競争は真に自分を高める学習に繋がりにくい。また、合格すればそこで「学」を捨てることが多い。そんなことより、14歳までに充分に友達と遊ぶことの方が大切なのではないか。そこではモチベーションに繋がる「エネルギー」が得られるはずである。
実はそもそも子どもにはモチベーションがあるはずなのにそれが何かに奪われているということもあり得るのか。
不登校、学級崩壊、学校不信、これは学校環境が子どものモチベーションを奪う何かになっていることに自覚的でないからでないのか。
モチベーションは、自己の問題を解決する尊敬すべき相手の生き方を見た時に起ることが多い。いやそうする相手を求めることがモチベーションの始まりを告げているのかもしれない。
でも、その逆の場合は・・・
大人は子どもに勉強しろと言うが、なぜ勉強することが大切なのか、真にそれに答えられる人は少ない。
筆者は単に、アタマが良くなるとキモチがいいからだと思うが、これではモチベーションの意味に繋がらない。
生徒たちには、ただ一度の肉体精神を用いての最大限に面白い人生の追求可能性を広げるための武装とか答えているが、自分にそれができているのかと言われればやや忸怩たる思いになる。
ともあれ、人生90年。オモロく生きることに思いを馳せれば、ふつうその瞬間に学に手が届くのではないか。