ふつう、学校では、成績の悪い者を劣位の者に見なす価値観が一般である。
つまり、学校に入ると、常に評定があり、序列があり、成績評価がなされることになる。
それは主としてテストで行われることであるが、集団内でその点数が低い者を、「アタマが悪い人」、「学習障害者」などとして見下す。
これは日本人なら潜在的に誰でもしていることであることを否めまい。
さて、劣位の者を見下す者たちの中で他よりも遥かに優位に立った者たちはそうではない者たちをどのように見なすであろうか。その想像は難くない。自分たちのしていることをされていると見なすのが当然である。
では優位に立った者が集団として集まるところではどうなるのか。それは、いったん我が身の優位を味わった者たちが味わうのは「上には上がいる」大優位の存在の認識の体験であり、その大優位の人たちから見た場合、単なる小優位に過ぎない連中はどのように見なされているのであろうか。最早専門分野研究に夢中になってそんなつまらないことは全然考えなくなっているのかもしれないが。
入学試験問題を作る大学業界関係者は、少なくともその優位の人たちである。彼らは博士論文を書き、大学業界人の1人となっている人たちである。
この論文を読みこなし、書きこなす人たちから見た場合、そういうことの素養が全くないと思われる人たちはどのような存在に見えるか。それは日常的に縁のない人たちであろうが、どうしても落差のある目線になるだろう。
大学と言う存在の目的は、自らのための研究生活費を稼ぐことである。それを稼ぐには、学生を集めて入学させて金を搾り取るしかない。優位の者が劣位の者に接触を許す代わりに金を取る。それはいやしくも社会の至る所で行われていることである。
だから、私立大学は何回も試験を行う。指定校推薦、公募推薦、A・O、センター試験判断、センター試験部分加味判断、その上で「全学部共通試験」!、ついに一般入試A前期日程、B中期日程、C後期日程とやる。全部落ちると行かない大学の行かない学部に20万円以上寄付したことになる。こういうことを臆面もなくやるのは、予備校試験業界も同じ、あらゆる種類の模試を考案実施する。それは模試が儲かるからにちがいない。そしてついには共通テストの業界発注。
最早バカにされ切った国民の子どもたちに無意味な過度学習をさせ、大切な生活時間を奪って、しかも金を搾り取る。いくら魚が釣れるからといって、こんなことは「優位者」のするべきことではない。
しかもである。このように試験問題の量産が必要になれば当然その一つ一つの質は確実に下がる。それでも金を得るために「優位者」たちは、試験問題を作り続けなければならない。ここでは試験問題は同じ印刷物の金そのものになっている。
その問題を作っている優位者たちは、本当に受験者レベルを計るに相応しい入試問題を作成しようとしているのだろうか。そこが問題であり、全体テストの無意味性が潜む。もし無意味であることがバレれば、金を取ることは難しくなる。だから絶対そのことに気づかれないように優位者たちは仕事を続けようとする。そしてそれは年を経て「既得権益」になって行く。