大学入試改革の背後にあるものーその3 | JOKER.松永暢史のブログ

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こうして大学入試改革の背後にあるものを穿り示そうとしていると、今朝新聞で、PISA国際学力テストで日本人の子どもの読解能力が低下しているとの報道があった。偶然であるが不思議な思いもある。また以下に試みる記述は、これまで何度も書かずに済まそうとして来たことであり、またそれがある意味で意味がないこともわかっていることである。

国語リテラシーには「段階」があり、また一方でそれが使われる「場」がある。

たとえば裁判や国会や役所などで使われる法的言語と、学問の場で行われる言語、ビジネスの場で行う言語等は、一般日常会話的言語とは明らかにレベルが違う。それはそれらが文書を基にした言語であり、意味規定に超クリティカルで厳しい場で用いられるものだからである。そして、そうした言語は一般の人の日常にはない。

ジャーナリズムにおける言語はどうか。それは意味規定というよりも意味伝達を優先させるものであり、だからそこでもクリティカルな読み方が欠かせない。この他、「作家」として一般読者に向けて書くという独自の立場があるが、それは一応本稿とは無関係ということにしておこう。またここでは「会話」は行われない。

だが、You-Tubeで用いられる言語はどうか。それは様々で規定することはできない。彼らは「演者」であると同時に「脚本家」兼「監督」である。「作家」であると同時に「スピーカー」である。そこでは言語使用の高速化も起ってくる。そこではやがて未来大衆日本語が生まれてくることになるだろう。

とまれ、下位の日常語や、その上の通常読書レベル(これにも段階があるが)、その上の専門書読解運用レベルと段階を上がって行くと最後はどこに行き着くのか。学界、政界、財界、法曹界、出版界・・・・、いやいやすでにほぼ決定した言語使用形式を用いるのではなく、その先のその上の言語使用とはいったいいかなるものと捉えることができるのか。

743年に墾田永年私財法が聖武天皇の勅令として漢文で示された時、これを読めた者は天皇の周りの貴族、そして寺社だけだった。残り95%以上の人々は、これを読むことはできなかった。今日でもこれと同様のことがあるのか。ほとんどの人が了解・運用できない言語、それはいったいどういったものなのか。