「二寛の研究」のすゝめ | JOKER.松永暢史のブログ

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12日夜満月経過。今度は下弦を含んで23日近地点に至る道程である。少なくとも19日頃までは良好波動のままで、20日の下弦時もそう低下することなく、23日の近地点に至ると見ている。近地点の4日後の27日に新月であるから、やや継続的である。だが、12月に入ると、4日下弦、5日遠地点と重なるので、この頃はかなり体調ダルいと予想される。

高大接続システム改革のことについて、公立学校の荒廃について、ADHDとその差別化の危険性についてと書きたいことはたくさんあるが、もっと踏み込んで別の「冗談」も書いてみたい。

高大接続システム改革の本当の理由は、東大や京大といった国立上級大学に人材が集まらなくて困ったからであることはすでに書いた。そしてそれは、慶応SFCがA・O入試、あるいはその一方で英語or数学&小論文という一般入試を始めたことにその原因の一つがあり、さらには着想力と実行力が高い人材が明治立教中央レベル層に多くなるという事態もあり、結局大学入試内容に、その先の学習に不必要なものが多く含まれていることが問題ということになる。

国立大の二次試験の特徴はそこに記述試験があることであった。これはなぜかと言うと、そもそも学校とは公務員的な人材を増やすための教育をするところであり、その最終型の大学教育の目的の中心には、国家公務員、地方公務員、あるいは教員を養成することがあるからである。公務員が下達文書を読めず、しかも上への報告書が書けないということはあり得ない。ここには武士の子弟が藩校で学ばされたのと同じ教育目的がある。また、こうした「人材」は既成の一般企業の管理職にも相応しかった。文書が読める、文書で返せる、文書で契約できる、こうした人材は企業体でも欠かせない。

日本人として、日本語で文章を書き日本語で知識共有すること、これは日本人なら誰でも身につけようとすべき能力であると思う。また、これからの国際社会で英語で読み英語で書く能力も大切なものになるだろう。また、もしもこれからITあるいはAIといった情報化社会が進んで行くのであれば、それを使いこなし、データを解析する能力も欲しいところだろう。それには高度な数学学習が必須である。

英語が外国人と同様に使えて、数学が微分積分の上の解析学をも身につけ、しかも自分独自の考察結果を文章化できるようにする。そんなことは多くの人には無理かもしれない。でも、たとえば帰国子女たちのように英語が堪能、あるいは数学を得意科目にすることのどちらかを目指すことなら多くの人に可能なはずである。また、文章が書けるようになることは、書けるようになろうとすれば誰でも身につけられる力である。

必要なのはこれだけである。後の余計な知識は自分で本で読んだりして学べばよい。あるいはそのことに好奇心が強い者がそれを専門的に学べば良い。そしてその結果はネットで公開共有すれば良い。

しかし、その学習に必要な時間を奪うのが受験勉強である。これは能力を伸ばすよりも合格することが主目的になってしまうから、必然的に糞暗記を含む学習になり、多くの時間が必要になる。暗記学習ばかりにアタマを使うと、着想力やイメージ力が弱くなるのが普通だから、つまり勉強してアタマを悪くしていることになる。そして、今は、暗記していなくともクラウドに共有した情報を、必要に応じてすぐに検索入手することができる。

どなたか、『二寛の研究』という本を書いてくれまいか。

SFCを創設し、その研究学習システムと入試システムを実行した経済学者、歴代政権の相談役でもあった、「ミスター税調」とも呼ばれた加藤寛氏の、教育の方面への貢献はもっと大きく評価されるべきだと思う。そこには驚くべき先見性があった。そしてついに高大接続システム改革を起こさなければならない事態に繋がるところに導いた。

加藤寛氏(通称カトカン)が初代学部長に就いた総合政策研究学部とは、政策の立案についての研究がその主体であり、もう一つの(二つしか学部がない)環境情報研究とは、政策の実行についてそれを受け入れさせるにはどうすれば良いのかを研究することがその主体であると思う。学生たちは予め自分の研究対象をある程度明確に持ち、それに関することをしていると思われるゼミを複数見つけ出し、それに参加することにより自己の研究目的を客観化し、さらには他の研究者とのコラボにより全く新しい分野の研究を切り開いたりすると言う。これでは「教養課程」はほとんど必要がない。

SFCは初期からIT利用に特化された大学でもある。そしてその入学試験は、繰り返しになるが、A・Oか英or数&小論文の一般入試。つまり暗記の勉強が必要ない。ここには発想力と暗記学習の関係を見抜いている視点もあった。

カトカン氏はそれをどこで思いついたのであろうか。ハーバード大学留学時であるのか。そしてなぜそれを実行に移したのか。

本ブログでもよく登場する鈴木寛氏(通称スズカン)は、なぜ1999年に通産省を辞めた直後にSFC環境情報学部の助教授になったのか。民主党参議院議員を辞めてからも、東大とSFCの中心的教授職を持ちながら文科省行政の中心部にい続けるのは、行政が彼の何を評価期待しているからなのか。

この二人の寛さんが共通に認識した日本の既成教育の欠陥とは何であったのか、それを著した書物が欲しい。

加藤氏はすでに他界しているが、ここは鈴木氏を中心とした新しい書物を出して、我が国の教育問題の深層を明らかにするべきではないか。その方がこの教育混迷の真因を国民の目に明らかにすることができるのではなかろうか。