高大接続システム改革の行くへ | JOKER.松永暢史のブログ

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SFCが行ったのは、A・O面接で研究対象(あるいはその方向性)が決まっている「優秀者」を選抜することと、一般入試で英数のどちらかに秀でて、自ら与えられたテーマについて考察し文章化する能力がある者を採ることである。

英語力—これからのグローバル化社会で、情報の受信のみならず発信やコミュニケーションに欠かせない能力である。

数学力—IT化社会において、その情報を解析する能力、構築するアルゴリズム的数学理解能力は欠かせない。

小論記述能力—体験や教養を元に自ら考察しそれを文章化して他者とそれを共有する力も欠かせない。

そして、予め自己の研究対象を持っていること。

このような試験に通過するために必要な学習あるいは能力を身につけるには、ふだんから好奇心の対象をしっかり持ち、英語か数学を自立的に学び、その上でよく本を読み文章を書く習慣が着くようにすることが必要になる。しかし、それだけである。

繰り返しになるが、これはセンター試験を受ける際の暗記主体学習とは真逆のものであり、ふだん学校における勉強も、試験のために暗記することよりもその教科の内容をよく理解していることに重点が置かれる学習になる。つまり、成績よりもアタマが良くなる学習をすることになる。

こうした試験が広まった結果、センター試験は、特に上位校にとっては無用の産物になった。いや「センター利用」の審査を設けることで余分な検定料を取ることができた。

子どもの勉強について、子どもの成績を上げようとする親は多いであろうが、子どもが好奇心に基づく研究対象を持つように育てようとする親はまだ少ない。もちろん学校教育が与えようとするのは知識修得であり、好奇心の活性化ではない。あるいはアタマが良くなることではない。

文科省も大学も、そして学校も、立て前的に求めると言う人材は、創造力着想力があり、自ら主体的思考し、その結果を発表共有する能力を持つ者である。

しかし、多くの教育機関で、そんな人材を養成するような教育はできない。そうすることができる人材も圧倒的に足りない。むしろ、知識偏重教育が育成するのは、自ら考えず受動的に吸収し、自己表現せずに、主体性を持たずに従順に上に言われた通りの道を歩く人たちなのではないか。そして、多くの可能性がある子どもたちを潰しているのがその実態なのではないか。片っ端から「学習障害者」と腑分けして、「邪魔者」として隔離してしまう。そういった主体的で発想力のある子どもを閉め出すことで、平凡で自ら考えることをしない子どもたちにその癖が移らないようにするのである。

結果的に「主体性」を獲得する人は何かのきっかけで自己に潜在するそうした能力を自発的に成長させて「生き残る」ことができた、学校教育に潰されなかった人たちである。それには周囲の見守りと協力が大きかったに違いない。

慶応大では多年にわたり、よく採点の労を厭わないものだと思わされるが、入試において単なる暗記では対応できない小論や記述解答試験を実践し、一方で国語の試験がなく、センターの利用もしない。そしてこれが大学入試に風穴を開けることになった。

ならば、するべきことは、少なくとも上位大学は、センター的試験利用を止め、マーク式入試を止め、A・Oで自己の研究対象が決まっていて文章が書ける者を採り、英数どちらかと小論文の試験をするということになり、これが可能な他の大学がこれに追随して行く方向性になるわけである。

高大接続システム改革において、最重要なことは受験生の発想能力を奪うようなマーク式の試験のための無駄な学習を止めさせることであり、それには「共通テスト」そのものを止めて、英語力は検定試験で測ってもらい、学校調査書とともに面接し、小論文を書かせて判断する接続システムを構築することだったはずである。

しかし、諸悪の根源のマーク試験は、機械採点によっておカネが儲かる試験であり、公的機関も、教育産業も、そして私立大学もこれを捨て切れないところが問題なのである。中には予備校などに丸投げして入試検定料の利ざやを稼ぐところもある。自分の学校に入学させる子どもを自分の手で選べないというのは教育団体として名折れである。でも儲かりさえすればいいと思えばそれも簡単に捨象されてしまうことだろう。

理念的には正しい接続システム改革がなぜうまくいかないのか。

それはそこにその「権益」に群がる人たちがいるからである。

そしてそれは我が国教育界全体の現実の姿を暗示しよう。