グっと涼しくなって、外を自転車で走ると肌寒いくらいになった。
毎年生徒たちによく言うことだが、2学期始まって涼しくなった頃に、学校の授業内容が急に深くなることが多い。そこでは、夏休み中に1学期の充分な復習、加えて2学期の英数などの予習が充分ではない場合、何となく授業内容が難しく感じられるようになったり、ついて行けなくなったりする。しかしこれが、ここへ至る学習理解が不充分であり、そこへ立ち返って再学習しないとならないという認識に繋がるのは、学期末に成績が出た時であるケースが多い。それでは遅い。やや自分の学習理解が怪しいと自覚できた者は、早めに自主的対処することが大切であろう。運動会の練習などで疲れている場合ではない。もしここで、「回復」できないと、特に進度の速い私立学校などに通う者は、これから先ずっと苦しむことになる。だが、平和で安全な世の中、親も子もそのことの自覚に至る者は限られる。また、やや暗記力に優れ、とりあえず闇雲に覚えることに努力する者は、見かけ上の成績はそう低下しなくとも、理解が浅い状態で先へ進むから、いつか足が折れることに繋がる。
こうしたことも、もし生徒がふだんからよく読書して、文章を書く習慣がついている場合、割と楽にクリアできることが多い。彼らは自分で教科書を読み、参考書を読み、わからないところを専科教師に口頭で質問することによって解決することができる日本語能力が高い者たちであるからである。
本日は午後6時よりリベラルアーツ上級コースで『孟子』を会講するが、参加者の国語了解能力の伸びは、いかなる国語学習より大きいと感じている。江戸時代の会講よろしく、やや理解が難しいテキストを皆で読み、それについてあれこれ自分の意見を述べて議論することほど国語力の増進を齎すものはない。ここでは本当の「国語力」が培われる。
初級が『論語』で、上級が『孟子』であるが、どちらも意見議論がたくさん出て大変に活発で有意義である。儒教経典を読んで日本の子どもたちが盛り上がるのは、それが彼らに、これまでの学校、授業、大人の態度、ひいては日本の歴史などを客観化できるからに相違ない。彼らは妙に得心するのである。「ああこういうことだったのか」「つまりこれがもとだったわけね」。
中には、「最近の大人はこういうことに自覚的ではなくなっているんじゃないの」などという意見が出る。また、金谷治と宮崎市定の訳文を対比しながら読んでいるので、その大きく違うところでは、その違いが起る理由について議論が行われ、どちらが正しいかについてこれまた議論が起る。
しかし、議論が起るとは、現在進行中のテキスト並びに他者の意見が理解できているということであり、また自分も発言することで、その思考に誤りがあることも、即座に他者の意見によって納得修正される。また自分が明らかにアタマが良い意見を口にしていることも自覚され、どうもその時により国語能力の伸びを感じているようにも思われる。
涼しくなって「読書の秋」。『孟子』を読めば「朱子学」にも至り、吉田松陰や山崎闇斎も話題に乗せたくなる。そこでは、江戸幕府が倒れた背後にあった思想と、「教育勅語」に至る明治以降の思想と、敗戦に至る我が国の主導的思想の客観化も可能となる。こんな生徒たちを前にする教師たちはやっていられない。ゆえにこうした授業は市井に埋没せざるを得ないのも当然のことである。