たとえば、道・学・芸・術・技と言ったものを、自己を高め、新たなる転回に至り、そして「境地」を得るための必然の手段と捉えた場合、それを実践する全ての人に人間的「向上」がもたらされよう。
逆に、競合する他者を想定してそれに勝るようにしたり、テスト成績での得点を目的としたりすると、「境地」には至らない。人間的向上には繋がらないのは必然である。
以前にも書いたと思うが、あらゆる宗教の共通点は、「よく生きよ、そしてそれを他者の幸福のために使え」と言う教えと同時に、実践的な「祈り」の仕方を教えるところである。「祈り」は、深く行えば、瞑想、内観に至り、アタマの状態をすっきりさせると同時に自身の存在の再確認をすることができるものである。
つまり、「祈り」の奥に「瞑想」があり、さらにその上に道学芸術技などを行えば「観想」が可能になり、自己向上の入口に立つことができると言うことになる。
現代社会は、宗教の混迷化などから、祈ることを日常に持たない人が増えていると思う。その代わりにヨガや瞑想を学ぶ人は多くなっていると聞くから、ある程度の人は、祈るような作業が日常生活に必要なことを本能的に知っていることになろうか。宗教的に祈る場合でも多くは普通それは1分にも満たない短いものであることが多いであろうから、「瞑想」と同じ状態のアタマにはいたらないことだろう。
ともあれ、祈りや瞑想は、情報過多社会にあっていずれ欠くことができないものになっていくことだろう。
しかし、それだけでは足りない。さらにその上で自分が意識的に打ち込んでいるものが必要になる。