厚生労働省設置法第3条第1項によれば、省の責務は、「国民生活の保障及び向上を図り、並びに経済の発展に寄与するため、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進並びに労働条件その他の労働者の働く環境の整備及び職業の確保を図ること」とある。「経済の発展に寄与するため」の文言がどうしてここに挟まれたのか不明であるが、現在、少子高齢化問題、医療費高額化問題、年金問題など、この省が「国民生活の保障および向上」を図ることについて充分な対処ができていないことは明らかである。「労働条件その他の労働者の働く環境の整備及び職業の確保を図ること」の文言からすると、外国人労働者を大量に入れる前にもするべきことがあるような気がする。いずれにせよ、この省は、その「責務」を果たしていると言えるのか。
文部科学省設置法3条によれば、文科省の任務(どういうわけか「責務」になっていない)は、「教育の振興および生涯学習の推進を中核とした豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成、学術、スポーツおよび文化の振興並びに科学技術の総合的な振興を図るとともに、宗教に関する行政事務を適切に行うこと」とある。最後の部分は、文科省内に「外接」される文化庁が宗教法人の認定をすることを指すのか。この省も、「教育の振興および生涯学習の推進を中核とした豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成」にまともに取り組んで来ていないことは「現状」より明らかと言えるだろう。
厚労省は、「福祉・介護」の他に「子育て」にも関わる(たとえば保育所はこの省の管轄である)。「子育て」は文科省と仕事が重なる。
連続する悲惨な事件の原因は、労働政策の失敗と教育政策の失敗が重なったところに起っている。教育の失敗は、家庭教育の失敗と学校教育の失敗が重なって現れて来ている。そしてそれは厚労省の仕事と重なる。
男女共同参画社会基本法は、1999年の小渕内閣の下で成立したが、男女共同参画局は内閣府内にある組織である。女性も働くということは、その間その子どもの世話を誰かが見るということである。つまり、保育機関、教育機関(学校)を充実させる必要がある。同様に、高齢者や病気の人など、介護の必要な人を預かる施設があるからこそ、人々は働くことができるのである。「経済の発展に寄与するため」という文言はこのことに関することなのではないのか。「後手」に回り続けているとしか言いようがない。
現場では、教師管理が限界を超えて、大量の不登校選択者が出ている。また教師の質の劣化、システムの不機能により、教育に大きな不満を持つ中高生は多い。彼らの中にも退学者、逸脱者が出る。
つまり、これから今以上に、生き辛い人が多く潜在してくることになる。これをこのまま放置することは国家、いや社会として本当に危険である。
「競争原理」とは「弱肉強食」を前提とした考えである。だからこれを働かすためには、弱い立場の者は上の言うことを聞かなければならないという教育を徹底させる必要がある。さらには、技術や能力が足りない者は低賃金で人の嫌がる労働に甘んじることを余儀なくされることを了解させる必要性もある。能力を開発するのではない。「上下」を決定するシステムに組み込もうとするのである。言うまでもなく、この「矛盾」の放置が、悲惨な事件の元となっている。「弱肉強食」を受け入れて、「競争」に失敗した者の多くは、人の嫌がる低賃金労働か無職を選択せざるを得なくなる。そこにはもはや「豊かな人間性」のかけらも残っていないことだろう。
個々なりに発展しようとしている子どもの教育に、「上」が「競争原理」を当てはめる。狂っているとしか言いようがないが、気がつかない者は気がつかない。
子どもには平等に発達の機会を与えて欲しい。
保育所に預けるとかえって子どもがよく発達するようにして欲しい。学校も同様、学校に通わせると、子どもの知力、感受性、コミュニケーション能力、創造性が高まるようにして欲しい。
それには個々の子どもへの充分なケアが必要である。
これを実現するのは大変な困難が伴うが、私たち大人が全員望まなければならないことだと思う。
もしそうなれば、親たちは安心して働けて、「経済」も上向くのではないか。
人にナンバーをつけて管理しようとするのなら、そのナンバーがついた子どもたちを一人一人きちんと面倒を見る仕組みを作ろうとするのが当たり前であろう。
厚労省、文科省、文化庁の部分を集合させて、「教育省」を新設し、子ども全体へのケアに大きく踏み出すべきではないのか。
しかし、それには、「競争原理」ではない「理念」が必要である。
いずれにせよ、私たちの社会の、未来の労働者、納税者、世代交代者、そして主権を持つ有権者となる子どもたちに、まともな教育環境を与えることは私たちの社会の「責務」である。