一概には言えないが、
「自分はバカである」
「自分はダサい」
「自分はアタマが悪い」
「自分はイケてない」
「自分は凡人である」
こう思ったことのない男はまずいない。
それどころか、そう100回以上思ったことがないという男は、本当のバカか幸福者であろう。
そしてこう思う。
「自分は確かに凡人で、世の中に自分より優れている人はたくさんいるが、自分がこうして自分の何かを活かして生きていることは事実である」と。これはいったん絶望して、そこから再度立ち上がって行こうとする生き方である。だから、ふつう、男にとって、若いときの挫折はある意味「宝」ですらあると言える。男は絶望と奮起を繰り返すことを厭わない性である。
そして、自分の中に他者にはないものを見出して、それを磨いて生きようとする。この時「他人」との比較はあまり関係なくなる。
しかし、男女参画の世の中になろうとも、女の人は、もし自分のことを、
「自分はバカ」
「自分はダサい」
「自分はアタマが悪い」
などと思ったら、ふつうとてもではないがやっていけないことだろう。たとえ瞬時には思っても、すぐにそれは無意識化されて忘れ去られることだろう。そうでなければ鬱病になる。
子どもを産み育てる性を基本とする女の人は、できるだけ悪いことがないように生きるのであり、通常その基準は世間一般との比較である。男なら「だからどうだって言うんだよ」と開き直れるが、女の人にとって自分が世間的に見て劣っていないと思うことは最大重要事であり、必要不可欠事である。
女の人は、本来コミュニケーションの能力が高いからこそ、どこまで行っても「世間」は消えない。だから、その「世間」と比して、何らかの形で自分を「まあイケてる」と思えなければ「幸せ」ではない。
逆に、子どもを産まない男は、根底のところで、「自分は生きている。身体的にも大丈夫だ。選ぼうと思えば何をするにせよ自分で選ぶ行動の自由がある。つまり、だから、OKだ」と考えていることが多い。つまり、こうした時は、「自分」があって「世間」があるのであって、「世間」があって「自分」があるのではない。しかし、これはもはや古いタイプになりつつあるのかもしれないが。
こうしたことは一概に述べるのは容易いことではないが、こうしたことを背景の要素の一つにして、現在の教育ビジネスがあることは言うまでもないことだと思われる。
以上、自分を「凡人」であると認識する男が「冗談」で考察した。