書くことについて | JOKER.松永暢史のブログ

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たまたま始めたことではあるが、ブログで物語を連載すると不思議なことが起って来た。

まず、物語とは思わないで実話として読む人が多いことに驚いたが、次に登場人物にモデルがいると考える人、そしてそれが自分や自分の知る特定の誰かと考える人が現れることにも驚かされる。前に冗談ファーストの「野田」が実在すると考え、実際その人物ではないかと質問された人がいたが、今回さらに驚いたのが、自分をモデルにした人物も物語中に登場させて欲しいと言ってくる人がいることである。

「僕が登場する時には、髪は緑でレイバンのサングラス、着ている物は縞模様のスーツにして欲しい」

これには腹を抱えて笑い転げた。

これはいったいどういうことだろうか。これを話す本人とは似ても似つかぬ人物を自分の役として使えと言っているのである。わけがわからない。なぜそんなことを望むのか。

しかし、これをきっかけに少しこのことを考え続けて見ると、意外だが当たり前のことが見えてくる。

それは、人間とは、他の者が参加するパフォーマンスに自分も参加したいと思う動物であるということである。

歌、踊り、楽器演奏、スポーツ、遊び、人は何かに参加したい。

それは「観客」としてでもかまわない。他の人が注目している事柄の共通の「観客」になりたいと思う。そしてその時に反応したり躯を動かしたりする。

でもそれはなぜなのかとさらに強く問いかけると、それは人が集団内での自己確認をせざるを得ない動物であることが見えてくる。

自己確認のために人は何かを作る、表現する、そしてそれを他の人に認知されて受け入れられる。つまり自己存在を確認できる。

自己存在が確認されるとどうなるのか?

すると、当然のことだが、そこに同時に「コミュニケーション」が発生する。

これは、自然環境で身の安全と食物獲得と休息と生殖という「仕事」だけを行う動物にはない、人間特有の能力と時間の使い方である。

人間は深いコミュニケーションが可能な動物である。

いや、コミュニケーションがなければ生きていけない存在である。

そしてそのためには、その人らしい自己表現の能力が必要である。

考えてみれば当たり前のことである。

さて、話がややそれたが、もし自分がモデルと思われる人物が、他の人が書く文章の中に連続的に現れるとしたら、それを読むことは、たとえそれが本当の自分とは異なっていたとしても結構愉しいことであるようだ。

筆者の今年の教育方針に、「さらに読めて書ける子どもを育てる」というのがある。

単にカタカムナ音読でアタマが良くなって国語が得意になるだけでは面白くない。

抽象構成法で作文が書けるようになるだけでは足りない。

もっともっと、ガンガン本を読んで、しかも日常的にガンガン書く、つまり生活の部分に書くことが備わる子どもを育てる。

Blog、Face-Book、You-Tubeなどを初めとする自己表現メディアの驚くべき発達により、誰でも簡単に自己表現できる時代になった。

そしてそれは人間が望んだものだった。

しかし、そのほぼほとんど全てが、言語を用いるパフォーマンスであることは誰にも否定できない。

だから子どもたちの言語による発信能力を高度に伸長させたい。A・I の言語能力が追いつけない言語文化の発達に参加させたい。

すでに書きまくりに近い状態の子もいるが、まだまだ足りない。他の生徒には猛烈に発破をかけよう。

「書け、書くことを習慣化せよ。それ以上にアタマを良くする行為は他にない。書くことが習慣化されれば、自然と周囲を観察する力が高まる。つまり「作家」状態となる。その状態に至れば、最早集団内でいじめの対象になったり、完全孤立することもない。そして、忘れてはならない。書くことが習慣化すると、これまで見えなかったことが見えてくるということだ。そして、それを記述して残すことが目的になるのだ。」

このメチャメチャな教育環境の中で、確実に生き残るには、自らガンガン言語で発信できる子どもを育てようとすることが正しい。

これも書くことから見えて来たことだと思うと不思議である。