何と言えばよいのか。これも「運命」なのかもしれないが、すでに妻たちに見放された?中年男たちが年に何回かともにコンサートに行ってこれを慰め合うというささやかな企画が続いていた。
曲目は、彼女たちがまず行きたがらないようなものをわざと選んで、それでかえって「危険」を回避しつつ溜飲を下げていた。
マーラー、ブルックナー、しかもイスラエルフィルとか、本当に来たい人だけが来る音楽会が好みだった。
ところが今回初めて趣向を変えて、美人女性ピアニストの演奏を見に行くことになった。
これは、ある飲み会で、男の一人が、You-Tubeでブニアティシヴィリを見るように勧めたのがきっかけだったが、3人ともすぐこの女性ピアニストの虜になった。
カティア・ブニアティシヴィリは、1987年グルジア(ジョージア)生まれの、すでに知る人ぞ知る女性ピアニストである。が、彼女が有名なのは必ずしもその演奏の素晴らしさにおいてだけではない。その「パフォーマンス」においてである。
昔から不思議に思うが、コンサートにおいて、男性演奏者は皆モーニング姿なのに、女性演奏者は、特にソリストは肩をむき出しにしたドレス姿で演奏するのが一般である。なんでだろうか。
なんで男は手とアタマ以外の躯を隠して、女はそれ以外の肩、腕、背、足などをほぼ丸出しにして演奏するのか。
それは「見せるな!」と言われているからなのか、それとも「見せろ!」と要求されているからなのか。
相撲などの逆ではないか。
ともあれ、そこには音楽表現の肉体性がアメノウズメく。
ここには社会学的に追求すべき課題がある。
そこに現れたのが、彼女が本年2月に来日してコンサートを開くと言う情報である。
3人はすぐにチケットを手配した。演奏曲目は何とラフマニノフの2番だった。これはいい。早速購入そしてさらに繰り返しYou-Tubeでカティアを見た。そして、これがナマで見られるとは、中年男冥利に尽きる、妻たちの存在を完全に忘れられる、最高の機会になると確信してなぜか心の底からホクソ笑んだ。
「ラフマニノフの2番って言うのが良いね。プロコの6番も生で聴いたことはない。家でプロコをかけると、『不協和音でうるさい!アタマがおかしくなる』とか叱られてしまうんだよね」
「女の人にはあの面白さがわからないのかな」
「N響でNHKホールか。前に懲りたことがあるが、目的はソリストの方か。彼女の迫力でオケも盛り上がるかもしれない」
「いいんじゃない。終わったらロシア料理でウォトカといこう!目的はとにかくカティアちゃんを見ること」
これは宝塚を見に行くオジさん連中と同じと言ったら失礼だろうか。純粋に芸術を鑑賞しようとする紳士的文化的態度から完全に逸脱しているとも言えよう。いや谷崎潤一郎も日劇ミュージックホールに通ったではないか。ええい、いつもの心がけとは違って芸術と芸能に垣根はない。大切なのは若返りを感じることだ。
てなわけで、3人は2月の16日の折しもバレンタインのチョコレート飛び交う真っ最中(彼らは結婚後に妻からチョコレートをもらったことはなかった)、寒風の中、渋谷はNHKホールに、若い時はこの坂を苦痛に感じたことはなかったと感じながら、重い足を引きずって辿り着いた。
なぜ足が重いかと言えば、実は前日、ブニアティシビリは体調不良で来日せず、代わりにウクライナ人の男性ピアニストのガブリ四つではなくてガブリリョクが演奏することになったことを知ったからである。それでも、この世界でたまにあるピンチヒッター名演奏をするかもしれないとかすかに期待を抱いて演奏を待つと、指揮のヤルヴィ氏はロシア人でほとんど丸坊主、84年生まれのはずのガブリリョクもガッチリした躯だが頭頂に全く毛のない無毛状態。自分たちのことを考えれば、文句を言える筋合いではないが、そこにあるはずのものは女性ピアニストの美しい肢体や肌ではなくて、大きく後ろにのぞけった時に強く目に訴えかけてくる丸ハゲとその横の指揮者のあたかも坊さんのようなボールド。これでは中年男のハゲみにならない。おまけにこのN響という、とにかくミスをしないことだけを使命とする演奏集団とでは、まるで学芸会の発表のように面白くない。それに、いつも思うことだが、このホールではかえってガーッと演奏した方が良い音になる。
後半のプロコフィエフの6番でもこの難しい曲をミス無く演奏するも、どうもミスをしないことだけに重きを置いている音楽のような気がして、感心はするが美味しくない。しかしお客は、いつものように儀礼的な拍手をやや大げさに繰り返す。
男たちのアタマの中には、妻たちの甲高い笑い声が響いていた。
そして、自分たちが失ったものを再度噛みしめざるを得なかった。