「ゲージュツ」について | JOKER.松永暢史のブログ

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「新月」確認したが、遠地明けでまだ調子が今一である。

この3日間、書くことは書くがどうも気が進まずに、「up」しないことが続いている。

そこには必要以上に余計な心情吐露を伝えたくない自分がいる。

このように、なぜかふざけることを忘れて正直な心情吐露になってしまうのである。

ここにおいては、それを「トロ」とでも言うのが「正着」なのかもしれない。

「芸術」活動を行うこと、「芸術家」であるとはどういうことなのか。

芸術家とは、「ゲージュツ家」。

今まで誰もやったことがないことをして見せるのが「芸術家」であろう。

既成のウケることを目指すのは、「芸術屋」とでもいうことになるのか。

しかし、これには、何らかの形で、何かを作り出して、それを連続的に「表象」することが、その前提となる。

「焚火教育」などで、自然と人間の関係を認識することの大切さを示唆する、しかし、それでは何かが不足する。

それは「表現」に他ならない。

「受ける」だけではダメなのである。

「表現」しないと話にならない。

しかし、ものすごく先を行った「芸術作品」が目の前にある時、人の胸中にあるのはいったいどんなものなのか。

「息をのむ」の後ですることは、その「息を吐く」ことである。

以上なかなか、「冗談」は難しい。

Carromyはどうするか?