慶応高出題について | JOKER.松永暢史のブログ

JOKER.松永暢史のブログ

教育相談、執筆・講演依頼は松永暢史公式サイトよりお願いします。

年末年始、久しぶりで慶応高過去問の指導をしていると、あらためてこの学校の試験が非常に特殊なものであることが感じられてくる。

早大高等学院英語出題が、早大英語と類似するのは、問題を作っている連中が重なっているか席が近い所にいるからに違いない。

慶応高英語の文法問題—二つの英文が同義になる様に空所を補充する問題などは、経済学部などの文法出題とアタマの使い方が同じである。10年分ぐらいやるとパターンも見えてくるが、英文の意味がよくわかり、その上で別の言い方を想起する必要があるが、さらにそこに語形や時制や代名詞言い換えなどが必ず含まれるので、そこまで綿密に考えられる、しかもアタマが柔軟な者でないと歯が立たない。もちろん、サピなどの進学塾に長期間通い、そこでの膨大な学習量をこなしていればこれもできる様になるのかもしれないが、他教科出題を見ても、慶応が求めるのはそんな生徒ではないことは明らかである。

超優秀な生徒なら、慶応など見向きもせずに、開成、筑駒などを目指すだろうし、また共学を目指す者は筑付や学大付、さらには都立の西や日比谷を目指すだろう。またそういった能力が高い生徒で資金が充実している者は、すでに中学入試で「青田買い」されてもいよう。

慶応大は、入試で国語科の試験を課さない奇異な大学である。代わりに、文学部、経済学部、SFCなどでは小論文を課す。

なぜか?これは国語の能力は、小論は別として、試験では測れない、と判断しているからではないか。それどころか世間一般で信じて行われている国語教育を無意味であると判断しているからなのではないか。

慶応高の国語で求められているのは、高級な二字熟語の書き取りや国語常識の他は、往々にして出題文の意味の読み取りが柔軟にできるかの問題で、さらにそこには禅問答的とんち問題が散見する。

これは、よく本を読んでアタマが柔軟な者を求めているのであり、塾で国語の問題演習をした者を求めているのではない。塾に行く代わりに本を読まなければならないことになる。つまり高校生前段階では、記述力よりも読書や理解力の素養が求められているのであり、大学入学前には論文記述力が求められているのである。このあたりは、卒論のある立教高などと同様な考えであろう。小論書けぬ者大学に行く資格なしである。入学後に本格的な文章修行が待っているよと言うわけである。ある意味でこれは、勉強はそんなにしないでも楽勝で、おまけに読書大好きみたいな子どもを求めているとも言えよう。でもそういう子のほとんどは超上級校に行ってしまうのではあるが。

これは教育上、非常にリーズナブルなことに思われるが、英語でも数学でも綿密な論理思考と同時に柔軟な発想力が求められる出題になっている。英語は出題量が多く、訳して理解するアタマでは終わらない。数学は、安易な得点を許すような出題は一問もない。計算もややこしく、信じられないような嫌な数値が答えになったりする。関数、図形問題の⑵⑶などは非常に高度である。これはこの学校の医学部出題を連想させる。全教科、やや愚かな者、どこかポケっとしている者、注意が細部に行き渡らない者、おまけに柔軟な思考ができない者を落とす仕組みが秘められている試験である。

これで300点満点で合格最低点は185点強だと予想されている。「優秀」と言われる生徒たちの「苦戦」が垣間見られる。

超最上級層ではない学校が、超最上級層に行っても不思議はない生徒を取り、超最上級層は望まなくても発想力やアタマの柔軟さがあるそれなりにしっかりした者を選別しようとする試験。

この学校の面接の基準というのが毎年話題になるが、試験問題からすれば、自律的でエネルギーに満ちた者を選ぼうとしていることは、福沢諭吉的に見ても想像に難くない。

慶応経済学部では、半数が付属校出身者であるとのこと。彼らがビジネスの世界で活躍する人材となるためには、それが必要なようである。そしてそれは単に勉強するだけでは得られないものである。