長いこと「教師」というものをしていると、いや長いこと「人間」というものをしていると、教育の場ではない日常で、あらためて噛みしめることがある。
それはついうっかりやってしまうことではあるが、人が愚かなことに腹を立てても意味がないということである。
そうではなくて、自分も愚かでない様に戒めるのが正しい選択なのである。
愚かなことをしている人は、そうしている自覚がまずない。
よほど愚かなことを繰り返している場合は、そのことが愚かなことであることに気づく日が来るのかもしれないが、普通、人は自分が愚かであるとは認識しない。特に政治家や大学教授など、社会的高位の地位にある人たちはまずそうは考えられないことだろう。いや、「一般人」こそ愚かさを忘れることの「達人」なのかもしれない。
人は愚かであることを自覚しないからこそ愚かなことをし続けるのである。しかし、誰も彼も何らかの形で愚かな部分を自己に内在していることを忘れてはならない。これは、ソクラテスの無知の知の哲学にも通ずることである。
日常で、人のしていることを「愚か」と認識したとしても、そのことを直接その人に伝え、その人を説得し、それをしないようにすることは、多くの場合、できない相談であろう。であるとするならば、人の愚かさに腹を立てるのはナンセンスなことになってしまう。腹を立てる分だけ損である。そのうち愚かでなくなることを期待するので充分である。いやいや愚かな人に腹を立てて見せるのはかえって親切なことなのかもしれぬ。
と言った意味でなのか、疲労の蓄積した学校教師は叱るのを止めて、代わりに職員室でPCに向って生徒の平常点減点打ち込み作業に励む様になっているそうである。
もしそれが事実だとすれば、それはもはや「教育」ではないことになるが、もちろん彼らはそれに気づかない。それは愚かなことなのであるが、これに腹を立てるのは、ナンセンスなことになってしまう。自然と良い方に変化する可能性は低いので、これはまず諦めるというのが賢い選択になるというのか。
以上、新年冒頭から「冗談」考察した。