なぜセンター試験を廃止する「高大接続システム改革」が行われようとしたのか。
それには多くの思考と分析が必要であるが、ここにその解説を試みたい。
そのためにまず、以下を確認したい。そもそも大学というところは、
1 論文を書いて資格を得た学者=専門家の話(専門用語入り論説文体)を聴いて理解する能力
2 彼らの提示するテキストを読んで概ね理解し、わからないところを口頭で質問解決する能力。
3 自らの考察結果を小論やレポートとして文章化する能力
の3者を有するものを対象とした高等教育機関である。それはフランスバカロレアの哲学出題を見ても明らかなことである。
しかし、我が国の子どもたちのいったい何%が18歳でこれに到達するだろうか。答えは多く見ても20%以上に満たない。ひょっとすると5%未満かもしれない。東大でも半分が良いところではないのか。
ということは、日本の大学はそこで学ぶ能力が未然の者を大量に入学させてこれを通過させる機関ということになる。
ご存知の通り、大学には「教養課程」と言うものがある。これはまだ専門分野を学ぶだけの能力がない者、あるいは自分が何を専攻しようとしているのかすら決定できない者のために、雑学的に面白そうなものも含めて様々な「教養」を与えんとするものであるらしいが、そこで指導する者はほとんどが非常勤教師(最近では「特任教授」とか呼ぶらしい)たちである。
これは、18歳で上記3者に到達した者にとっては「詐欺」に等しく感じられる事実である。
研究したいことがあって大学に入学したのに、することは勝手に本を読むことくらいになってしまう。金を払って大学に行き、使うのはせいぜい図書館。
長い間日本の大学は、いや日本の教育は、これを許して来た。だってしかたがないじゃあない。みんな読み書きちゃんとできないのに大学へ来るのだから。
とんでもないことである。その彼らを教育して来たのは、日本の教育機関ではないのか。
きちんと教育すれば、18歳までに半数以上の生徒に高等な読み書きの能力を付けさせることができるのが本当ではなかろうか。
考えてみればおかしい。
なぜ中学から高校まで6年間も英語の授業を受けて、ほとんどの者が英語で会話することができるようにならないのか。本来なら英語で作文すらできるようになっているべきではないか。
これと同様に、なぜ、小学1年から高校3年まで12年間学校に通って、自分の考えを文章化する能力が身に付かないのか。
言うまでもなくこれは、わざと「放置」されてきたことと思われるのである。書ける者は学校など関係なしに自分で書けるようなった者たちである。乃至は、超優秀なために学校教育の害を免れた者たちである。それどころか、その「優秀な者たち」に異変が起きているのだ。これについては別に書きたい。
高大接続システム改革を想起した者は、この事態を変革しなければこの国の将来が危ないと見抜いた者だろう。
だが、全く予算がない中でこれをどうしたら変革できるのか。
それには上から変革していくしかない。
ある程度の学力が保証されたら、専攻したいことが決定している者をA・Oで採る。
そうすればその下の教育機関もやり方を変える。
そう考えた。
・・・どうもこんなことをここに書いてもしかたがないと気が引ける。後は、鈴木寛さんとSFCと東大内情について書けばよいのだが、その上で言いたいところまで筆を伸ばすのはいささか煩わしいし、明日からカタカムナ音読で沖縄出張でパソコンは携帯しないし、あとは読者想像に任せるというのは「無責任」だろうか。