不登校になるとは、学校が嫌ということである。
以前は、お友達が嫌、クラスのムードが嫌、先生が嫌などがその主体であったが、最近では「学校というもの自体が嫌」という感触が全体に強くなって来ている。
そもそも人は、家にいて何もすることがないと外に出かける。外に行くと自然がある。そして気の合う人と会う。
集まる場所が決まっていれば、人といっしょに同じことを連続的にすることができる。これは愉しい。また一日中遊んでいてもしかたがないから、少しは将来に備えて体を鍛えたりアタマを鍛えたりする。
学校とはそうした場所ではなかったのか。
しかも、「指導者」もいる。
面白い場所にできないはずがない。
しかし世の中は妙なことになってしまった。
少子化、核家族化で、手をかけられ過ぎた子どもたちが、都市化した生活の中で、情報の洪水とそれに類する遊び商品にまみれて自然体験の機会を奪われれば、古のままの「学校」というシステムと馴染まなくなってしまう。それどころか、かえって頭の良い子は、「バカバカしい」とその本質を見抜いてしまうことになる。
ニーズに合わない教育を与えることは、資本主義の精神とも矛盾している。
子どもの教育の整備を投げやりにして、彼らを未来の労働者、納税者、世代交代者として健全に発達成長させない為政はどう考えても間違っている。しかし、では大人たちが子どもたちの教育環境設定をきちんと考えているかどうかと言えば、これまた?マークがつく。
高大接続システム改革を立ち上げた人たちは、こういう状態も分かっていたのか。
—上からの入試システム改革をすれば、下がそれに順応して変化して来る。
本当か。高校はそうなるかもしれないが、文科省義務教育下の小中学校はどうなるのか。
教育のシステムは変わらないのに、どうしてその改革ができるのか。
なに?「いつも通り・・」?声が小さくて聴こえない。
「いつも通り、見殺し」
以上当然の如く、このブログは「冗談」で書かれている。