23日奥多摩河原で焚火。
初め日が出ていたがおおむね曇天。暑くもなく寒くもなく、やや強い河原の風が心地良い。
風があると言うので、ちょうどいいところにあったイノシシくらいの大きさの大岩の陰で火を起こす。
火がよくおこったところで、トントロ、ソーセージ開始。初めての人もあるがもはや皆手慣れたもの。
細竹にバーベキュー串を装着した「槍」。食する時には串を外して食す。
続いて各人の持って来たものを焼く。回数を重ねた人は、見たことも無いものを串に刺して焼いている。
さて、秋の川は、水量少なくもなく多くもなく、ほどよい「急流」を醸し出している。
実は子どもたちは、焚火なぞに目もくれず、初手から川に入る。
救命胴着を付けて対岸に泳ぎ渡り、そこから岩上に登りダイビングする。そこは2ヶ月前に筆者が足を怪我したところであるが、ウォ−ターシューズを履いた子どもたちは、何かワイワイ騒ぎながら次々に飛び込む。
飛び込むとそこは急流、流れに身を任せば気持ち良く下流砂州に運ばれるが、それでは面白くない。何か危機にあった隊員かなにかのように、叫び声を掛け合いながら懸命に流れに逆らって泳ごうとし、手近の岩に手でつかまって流れをこらえて岸に上がる。
これを繰り返す。唇が青くなっても繰り返す。さらには上流から急流を流れ下り、先の岩の下で岸にしがみつこうとする遊びを繰り返す。
たまにお腹が空くと、歯をガチガチさせながら焚火のところへ来て何か焼いて食べるが、すぐに川に戻る。
「おいおい。もっと躯があったまってから行けば」と声をかけると、
「そんなことは、すれば川が冷たくて入れなくなる」と言う。
試しに子どもたちの肩を触って見ると、まるで冷蔵庫の中の魚のように冷たい。
「冷えーっ、これでよく平気だね」
「関係ないです。さあ行くぞ、みんな!」
子どもたちは繰り返す。何かワイワイ騒ぎながら繰り返す。
冷たい急な流れにドボン。
これに懸命に逆らって岸に漂着。
さもなくば上流から急流下り。
これを飽きることなく繰り返す。
なぜ子どもにはこれができるのか。
大人はもっとこのことを考えるべきだろう。
子どもにしかできないしつこい繰り返し。
彼らはそこで何をしているのだろう。
どうして繰り返しそれをすることができるのだろう。
昔それができた大人たちは今もそれができる自分を持っているか。