なぜ最近の子どもが軽くウソやゴマカシを多用するようになったのか?
これは「いじめ」の問題同様、なかなか悩ましくその原因が掴みにくい現象である。
実際に何人かの子どもたちに、「最近ウソつく人増えていない?」と尋ねると、全員が「すごく多い」と答えてくる。あらかじめ、「こいつの言っていることは嘘の可能性が高い」と思いながら話を聞くことも多いそうだ。
仲間内で「嘘つき」の烙印を押されることはものすごく損なことである。これは単に友達の信頼を失うということだけではない。ウソをつくことが癖になると、自分が自分についているウソにも侵され、正しい行動が選択できなくなる。
「〜をしなければならないがやりたくない」→「そう言えば他にやることがあった」or「必ずしも今やる必要がない」→そして切羽詰まると、「いろいろと他にやることがあったからできなくてもしかたがない」→「面倒くさいからやったことにしちまおう」
もしこうしたことを学習活動に当てはめればその子は簡単に奈落の底に落ちる。目の前にあることは皆ウソであり、必然的に重要性のないものということにできる。しかし、それがウソを容認している弱い心だとは意識できない。
事件が発生すると、まず「僕ではない」と口にする、問いつめられると「本当に無関係です」と言う、さらに論駁されると、「記憶にない」or「覚えがない」と言う。中には、「その時は意識的にアタマが働いていなかった」というものまで出る。
すぐ国会の、閣僚や官僚や国会議員の弁明を思い出すが、子どもたちが国会を見ているとは思えない。新聞もほとんど読んでいるものはいない。だとするとテレビか。
テレビというよりメディアがいじめの発生原因の一つであることは想像に難くない。マスメディアは事件を報道する。しかし、犯人や被害者にとって事件に関係ないことまで根掘り葉掘り報道して攻撃するのは、働く大人がその社会的ストレスを脱落者攻撃を目にすることで発散する機会を提供するサービスで、実際これが売れるからであることは明らかであり、子どもたちの目から見れば、大人は明らかにいじめをしていることになってしまう。
この反対にセレブ賞揚なんて言うのがある。単なる「リッチ」に憧れを誘う。その結果、「リッチ」は金を出せば誰でも手の届くあることであることを想わせ、自分もややそうであることを誇りたい人も出る。こちらとしてはリッチの前に、米の品評能力を試したいが。
自分をよく見せようとするウソ。これは実に世にはびこる「虚栄」である。持っているものを自慢している段階では本当の「リッチ」にはほど遠い。
問題なのは、自分の責任を逃れるためのウソ。あるいは自分を有利にするためのウソ。残念ながらこれも大人の世界では広く一般に行われていることである。
でも何で最近特にそうなのか。
その答えはまだ分からないが、複数の少年が「それは多分lineのせい」と答えた。
「オンラインゲームやlineをやっていてつまらなくなって止めたいとき、多くの人が便宜上のウソをつく。たとえば『今母ちゃんが帰って来たからまた後で』とかは誰でも使う常套句だと思う」。「lineは相手が見えないから、どんなウソも可能になるから、ウソらしくても確認のしようがない。返信が途絶える、もしくはOFFにするというやり方もある。言いっぱなしでも咎められないで済む」。
言語が不完全であることはヴィトゲンシュタインよろしく真実である。言語は「真実」をそのままには伝えない。だから、それを聞く側が解釈判断することが前提になる。このことに強く意識できた者が、かえってウソは得策でないことを認識し、自分の知力向上に役立てることを可能とするだろう。こうした考えが出るのはひょっとすると「タルムード」のおかげなのかもしれない。そう言えばヴィトゲンシュタインもユダヤ人だった。