「オレは実はアタマがよい。いやアタマが良かった」と「彼」は語る。
こちらから見ると、けっしてそんなことはあるはずもないが、「彼」はそう言う。
彼が言う「アタマがよい」とは、己が「洗脳」されていることを見破り、それを「客観化」することなのであるが、そのこと自体の「客観化」というのはあり得ないのか。
どうも、彼の言う「アタマがよい」とは、他の人と比較してのことではないことのように思われる。
では、どーゆー意味で「アタマがよい」と言っているのか?
—アンタはどうして自分のことを、「実はアタマがよい」と思われるのか?
「そりゃ目醒めているからよ。ふつうの人は眠っている。そしてその眠っていることに気がつかない。また目覚めることに興味がない。あたかもオタマジャクシがあらかじめその足が生えることを予見しないように、目覚めることが存在すること自体を表象できない。
—それはなぜなのか?
「平和的必然。話が長くなるから断然省略するけれども、ふつう人は安全だとボケるのよ。感性の発達が不十分なのでやんすな。ヒマつぶし時間に情報を享受するだけで充分な気になって、自ら何かを発想する必要がなくなるんじゃないの。そしてそのことを意識できないんじゃネーの、フツーは」
—じゃあどうすればよいの?
「まあアタマが良くなるということがあることを教えることになると思うんだけど、相手がスマホやり過ぎで満足していてそれを望まない時はそれはできない。でも大人はできなくとも子どもはできるかもね。何しろ大人になる前の子どもであるからね。」
—そーかー、では結局究極的にどうすればいいの?
「アンタ、ナニ「冗談」でこのブログを読んでいるの?
わっからないかなあ、マジで「冗談」あるのみなのよ。
アタマがヨクなることに、「冗談」の存在が関係ないと思う?
これがわからない人はこのブログを読むのをヤめたホーがイーイ。
気が狂わずに「冗談」。
イヤなフライもぎりぎりキャッチ。
自らのウンコこそが己の自撮り画像。
賢くなる前には、まずはその凝り固まったウンコのような無自覚的なアタマをモミほぐすしかない。
まるで「下剤」のような「冗談」。
それはいかなる時に可能か。
以上、ニッポン自由民主冗談党のノダが渾身の思いで「冗談」で書いたでやす。