当たり前のことであるが、子どもは、特に男の子は「勝負事」が好きである。
世の中には、かけっこ、ジャンケンから始めて、囲碁、将棋、カードゲーム、ネットゲーム、スポーツ、武道、そしてギャンブルと、あらゆる種類の「勝負事」、ギャンブル、競争・・etcがある。
考えてみれば受験も就職試験もビジネスも研究もみな一種の「勝負事」と言えるのかもしれない。ひょっとしたら政治の世界でウソついてバレるかバレないかというのも勝負事なのかもしれない。戦争なんてどう考えても「勝負事」ではないか。
人生も恋愛も結婚もみな「勝負事」なのかもしれない。
というのは、もちろん「冗談」であるが、「勝負事」の面白いところは、そこに相戦う者同士が守らなければならない「ルール」=倫理があることである。
たとえば、かけっこで「ヨーイドン!」を守れない者はかけっこの相手にされない。ジャンケンで後出しすれば批難されてやり直しになる。
あらゆるゲームにはルールがある。これを破る者は「参加者」と見なされない。つまり「つまはじき」になる。スポーツ、特に武道でルール違反をすれば反則負けになる。ギャンブルの場所でズルがバレれば次回からその場に行かれなくなる。試験でカンニングをすれば失格になる。だが、戦争の「ズル」はどうするのか。だから宣戦布告があるのか。恋愛でズルするのを「不倫」と呼ぶらしい。結婚の「勝敗」は心の持ち様で決することができない。で、人生の勝敗は?そしてそこでの「ズル」の意味は?
「ルール」とは「約束」である。それを守らないと人としてやっていけない。
世には積層する約束事がある。
実は、「約束」を守る学習の多くは、「勝負事」の中とその延長線上で行われているのではないか。
しかしそれは、人対人の間で培われるもので、機械との間では実は成立しないものだろう。機械にはその約束の「意味」が分からない。自分側が決めたことに沿うように指示して来るだけである。だからそこには、実は「勝負」は存在しない。「勝負」しているような架空の現実感があるだけである。つまり、「倫理」の学習にはならない。「遊び」として意味がないことになる。