「ウケ」と抽象構成 | JOKER.松永暢史のブログ

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偏屈者の筆者は歌舞伎より能を好むが、それは歌舞伎があまりにウケを狙いにくるところが嫌だと勝手に思い込むからであるが、こうして改めて『魔笛』やシェイクスピアの戯曲を眺めると不思議な思いがこみ上げてくる。

シカネーダーによる『魔笛』の台本が、聖者ザラストロ、夜の女王、フリーメイソン、イシス・オシリスといった構成要素を、自身出演する道化役パパゲーノが繋ぐという継ぎ接ぎ内容であることは前に述べたが、能楽の内容もこれと準似するのではないか。世阿弥は、古今集の和歌はもとより、伊勢物語、平家物語などから部分を引用脚色し(なぜか源氏物語はない)、夢幻能の舞台の形成実現のためにこれを利用して作品化した。シェイクスピアは、中世ラテン語文献からストーリー案を得て、それらを利用して戯曲を作っていた。なぜイギリスなのに「ヴェニス」の話なのか、不思議に思ったことがある人もあることだろう。

もちろん彼ら天才「詩人」たちが、その驚くような文章力で全体を書き下ろすからこそその傑作が出来上がるのであるが、彼ら脚本家のすることは明らかに「抽象構成」である。

そして、忘れてならないことが、それが多くの観客を前にして行われる「芝居」であることである。

芝居は、演劇は、多くの人に「ウケ」なければならない。ウケには独特のキャラクターの「見せ場」がなければならない。

言うまでもなく、オペラでは歌唱が、芝居では演技が、そして能では舞が、その「見せ場」となる。つまり、いささか乱暴だが、「ストーリー」よりも先に「見せ場」がある。手元にある看板となる歌手や役者や舞踏者が先にある。台本作者は、そのために抽象構成をせざるを得ない。

とはいえ、逆にそこには観客が喜ぶ「ストーリー」が必要だ。それは何度も繰り返される当たり前の話か、時勢にぴったりの物か、ある程度の者が誰でも知るところの物とかになろうが、多くの観客がよく理解する物でなければならない。そもそもお寺から始まって、武士とその周辺の人たちを対象とする能楽では、やはり平家物語が好まれがちで源氏物語は相応しくない。織田信長が出陣の前に舞ったと言われるくらいだから『敦盛』何ぞは武士の「演歌」として最高だったのだろう。つまり、いつ死ぬかわからないという思いが強い武士層が主たる観客であったから「夢幻能」が求められて、世阿弥はその期待に応える脚色を考えなければならなかった。これに対して、舞より芝居に重点を移した江戸時代の町人層を主対象とする歌舞伎では、義理や情け、勧善懲悪などがテーマになり易くなる。

これまた元旅芸人芝居小屋座長のシカネーダーは、おそらくはモーツアルトが顧客にしていた貴族層とは別の層を対象客としていたに違いない。彼は、カトリックではなくプロテスタント新興ブルジョワジー層を含んだ層を対象に大ウケを狙わなければならなかった。そしてないのは良い楽曲だけだった。

音楽に頼らない純然たる演劇を書いたシェイクスピアも貴族を含め幅広い層の大きな支持を得うる言葉を紡ぎ出さなければならなかった。そこにも「ウケ」の前提があったに違いない。

名指揮者カラヤンも狙ったに違いない、この「ウケ」とは何なのであろうか。

戯曲家としては、その「抽象構成」の全体結果こそが「作品」なのであろうから、それがウケることが目的になるだろうが、それは部分を構成する「ウケ」とは意味が違う。

とにかく、戯曲家は予め定められた部分を元に抽象構成せざるを得ない。

相変わらず生徒たちの観念抽出→抽象構成した作文に目を通しているが、皆それなりにどこか味のあるものになっているのは不思議なことである。抽象構成することは文章を書く基本なのだと改めて思わされる。