何のために勉強するのか(承前) | JOKER.松永暢史のブログ

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前回堀江氏の著作について書いた後、来月中旬に主婦の友社から刊行予定の『ズバ抜けた問題児の伸ばし方』のゲラが上がって来た。これに目を通すと、ここに書かんとしたことがおおよそすでに書かれていた。

やや気をそがれたが、そこに書かれなかったこともある。引き続きここに記したいと思う。

勉強する目的は、賢くなるためである。

賢くなるとは、二つある。

先ず、人にダマされない人間になることである。次に、活性化したアタマをつくるためである。

つまり、アタマが良くなることがその目的ということになる。

筆者はその仕事の早期から、単に成績を上げるだけでは面白くない、子どものアタマをよくすることが教育の本質ではないかと考えて来た。しかし、世のほとんどの人は、知能は事前に決まっており、成績を上げることが教育の目的だと思い込んでいる。そして成績が良いことをアタマがよいと呼ぶと思い込んでいる。

これは一種の観察力の不足とも言えるが、筆者の経験からすれば、成績が良くなるからアタマがよいのではなく、アタマが良くなるから成績も上昇するのである。

人にダマされないとは、人が書いたものを読んで、ただそこに書かれていることを理解するだけではなく、そこに書かれていることからその筆者が意図的に人を導こうとしていることを見抜くことであり、選択肢問題の学習は正にこれに当たる。あらゆる資格試験は選択肢文を読みこなすことが柱になっているのであるから、これができるようになった人材は試験にも強くなる。また、メディアや広告などの言説にも容易くダマされない高度の国語力を有する者となる。

アタマが活性化するとは、アタマがあたかも鍋の中の小豆がフツフツと煮え立つように、あるいはミツバチの巣の中のミツバチの群れの動きのように、全方向に縦横無尽に動き、さらにそこに深化が備わることである。

ものごとに集中、あるいは没頭すると、他のことが見えなくなる。そうではなくて、集中と同時に注意できること、集中している最中でも周囲の状況を良く観察把握できている状態ということである。

たとえば、自分の車の高速運転に集中するだけではなく、周囲の車や道路の状態にも充分観察注意、あるいはもしものときでも、とっさに変化対応できる状態と喩えることもできよう。

学習中にこの状態に至ると、今取り組んでいるものごとにだけではなく、その周辺に浮かび上がってくる関連する重要事項も把捉できるので、より発展的な学習ができることになる。

一種の認識の高まりと言えばそれまでであるが、そうした状態に至れば、逆に目の前の課題は楽にこなせている状態になる。

こうしたアタマの活性状態を知れば、アイデアも自在に出ることになり、次々に自己が挑戦するべき事柄も見えてくる。

もちろんこうしたアタマの状態を知る者は、周囲の者を簡単に凌駕する。

こうしたアタマの働きは、多く遊びの中で得られるものであるが、これを勉強する時にも応用した場合、その学習も遊びと同じ楽しいものとなる。そしてその伸びは非常に大きなものになる。同時にそこに大きな高まりと深い快感を実感することができる。そしてこうしたアタマの働きを獲得すれば、人生は限りなく幸福に近づくことになる。

ビジネスでもスポーツでも芸術でも、高い次元に到達する者は皆このアタマの状態を獲得した者たちであると言えよう。

つまり、勉強するとは、アタマが良くなり、それが幸福に結びつくことであると言える。

しかし、こんなことを意識的に教えようとする教育機関は先ずないことだろう。

それが問題なのである。