皆様、「ノダ」でございます。
「神殿」のお掃除中に、ゴミ箱の中から、「メモ」を発見致しました。これはなぜか、捨てられるほど重要なものと察しまして、ここにその記述の再生を試みます。誤字脱字は小生の責とお申し置き下さい。
書くことを「捨象」すると、瑣末的な体験は皆後方にすっ飛んで忘却されてしまう。
書くことは、自らその世の中をかくように「観る」ため。
しかし、その「鏡」に映る世の中は、かくも平和であるというより愚かしい。下らない。つまらない。
もう、先のことは見えた。
教育の場としての「学校」は消滅し、「放課後」としての自由時間が現象してくる。
子どもどころか、この「自由時間」こそが全ての人が生きる目的。
そこで何を行うかがその人の人生を決定する。
それには「前提」として、「目覚める」ことが必要である。
しかし、かつてないような目醒め、これまでの自分の認識が過去のものとなるような新認識、それがあることをその経験がないものには伝えようがない。
—あなたは驚くほど目が醒めた時の記憶があるか?
眠っていることを優先する人間に、そのことを伝えても「無意味」であるという真実がそこに顕現する。
でもそのためには「冗談的」認識訓練が必要である。
究極バカらしくないこととはどのような状態であるのかという連続的ダイアローグが欠かせない。
まるで幼時の遊びのように、「大人」から観れば致し方なくバカらしい。
「興奮」は求めるものではなく「結果」である。
しかもそれは他者刺激に前提的に依存する。
だが、「高まり」はこれとは別のことなのである。
その時点でほぼ完全な他者存在認識と、それに先行する自己の「発動」。
これに対向発生してくる者を、真の「朋」と呼ぶのだろふ。
あたかも実際のハゲより「ハゲ」であることを自覚できぬ者は、永遠にその「若さ」の錯覚に埋没して、追体験のない「旅」、心情のない「享楽」に自覚的でない憑依隠遁者であることの忘却に留まるのがその宿命である。
なんちゃって。
一般の人には、「冗談」にもほどがありますが、敢てここに記録しました。
レトリックの遊び、おつきあいは程々に。