「他者」侵入 | JOKER.松永暢史のブログ

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ペライアのモーツアルトを聴きながらこれを書く。

モーツアルトもマーラーも、ヘーゲルもニーチェも、そして「ポストモダン」にも飽きた人間は一人考える。

—何か新たな面白いことはないか?

今の世をブッとばすような未来的な発想はないのか?

「マトモ」ではない人間は当然そう考えるのがフツーだ。

これは世の中についてのこれまでの認識を変えようとしている者の「認識」であり、実はここに書くべきではないことなのである。

書くべきではない。

書きたくない。

書く必要がない。

書いても「意味」がない。

先行覚醒者において守るべきことは「沈黙」である。

誰もまだ気がつくはずがない!

意味の「多様性」の提案。

それは、「遊び」=「巫山戯」だけでは済まなくなった。

「利益」だけを最終目的=前提とする「カルチャー」によって、いかなるレトリックも「商品化」された。

金をもらって「ウソ」を書く。

そして、信じられないことであるが、それを楽しんで読んでいることに自覚的ではない人々がいる。

ここにおいて、「選挙」は「無意味化」している。

「母体」がバカで意味がない。

誰も皆「情報過多」の中で何も分からなくなる。

メディアに同化された人々。

乃至はその自覚がない人々。

「芸術的感興」の「捨象」。

「バカ」にされていることを「アイデンティ」として楽しんでしまう習性。

ここで実践するべきことは「遊び」である。

しかし、それが世の「実体」である。ダマされている人は騙されていることに気がつきたくない。そして、ダマしている側は、それこそが「社会秩序」と胸を撫で下ろす。「バカ」な者は、当然その「バカ」であることに気づきたくない。ただ1回だけの人生。それは「生体実験」に使うべき時間である。いくら哲学的に考えてもそれに尽きる。

ダイジョーブだよ、これより書かないから。

最早「死」も恐れない。

それは予め「決定」されていることであるから。「バカ」な人たちに分かってもらおうとすることは、「矛盾」であるから、やりたいようにやってみせるだけ。

当然の如く、言語学的意味において、これは「冗談」で記述されている。