互いを見知った昔の村社会では、善良であることが個人の存在存続の条件だった。悪いことを考えない。悪いことをしない。悪いことをしない人物と認められている。昔話の中ではそのことが価値観の根底にあると思われる。とにかく、善良であると認められていなければ生き残れない。
ところがお互い誰かもわからない人が混じり合って生活する現代都市社会では、「善良」はかえって危険である。単に善良であると損をする。
善良であってもダマされなくならなければならない。
それには「武装」が必要ということで「勉強」することになるが、ここで行われる「勉強」が必ずしもアタマが良くなることに繋がるとはかぎらない。そこには何やら既に「洗脳」の香りすらある。
すると、難しいことをやらされるより、いい人間で楽しく生きたいという考えに簡単に転ばされるが、これは村社会的発想をしていることに本人たちは気がつけない。彼らが見るべきなのはこれから先の不確定社会であるというのに。
「まあいいか」・・・これはすべての人間の心の底に潜む想念である。またそれがなければ人としてやっていけない。しかし、習慣的にこれを自分に向けてやってしまう者、乃至はそうしてしまうことを許してしまう大人に育てられる者は、社会に見捨てられた子どもたちになっているのである。
私たちは村社会には戻れない。
だから、「武装」が必要である。
それには「意味」のある体験と学習が必要である。
何度言っても通じない人には絶対通じないことであるが。