三省録 | JOKER.松永暢史のブログ

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リベラルアーツ上級コースでは、マルクス・アウレリウスの『自省録』を読んでいる。

初めに各人に、どのような内省=自省を行っているのか尋ねてみたが、「ああしなければ良かった」という「反省」みたいなものはあっても、自分自身についての自省の様なものはあまり行わず、中には「ほとんどしたことがない」と言う者さえいた。

そこで、『論語』の學而第一から、「曾子三省」(吾日三省吾身,為人謀而不忠乎?與朋友交而不信乎?傳不習乎?)を読み、「一日3回、1−人に対する真心があったか、2−友達に対して言葉が誠実であったか、3−よく分かってないことを口にして伝えていなかったか、省みると言うのであるがどう思うか?」

と現代の若者に問うと、「1、2はやらないが、3はやることがある」と答える者が多い。もちろん、「どれも全くやらない」という幸せ者もいた、結局「一日3回そんなことをしていたら病気になっちゃうよ」と鬱病についての話になり、単なる善人としての反省も良いけれど答えが出ないことを考え過ぎるのも意味がないという一応相変わらず力強い結論になったが、

 

1 他者を大切にしているか?

2 ウソをついていないか?

3 知ったかぶりをしていないか?

 

の3者に優先順位をつけるとすれば、どちらかと言えば、1→2→3になるはずで、3はむしろ2に包含されるべき命題であるはずである。また、ウソをつかないのは目の前の他者を大切にしていることでもあるから、これまた1に包摂され、結局、「忠」「信」「誠」の中心点に「仁」、すなわち、「他者存在へのナチュラルな愛情」があることが浮かび上がる。すると、瞑想中に行うべきことは他者存在の幸福への祈りということになるはずである。

『自省録』は、他者の眼に触れないことを前提に、皇帝が自分に言い聞かせるように記したダイアローグ録である。だから、他人に読ませる作品として書いたものではないので、レトリックや比喩に弱みがある。『徒然草』などとは対照的であると認識した。

しかし、そのコアにある思想は、すでに仏教など東洋思想も渉猟した我々からすれば、別に目新しくない、驚くべきものではないものである。

で、これを政治指導者などの「エラい」とされている人たちが、「愛読書」として掲げているのはなぜなのか?という議論になった。それは、明らかに善人であることが分かる皇帝の書いたものを愛読書とすることが自分に有利な印象を与えるからだろうというものになったが、そこから、もし就職面接の場で、「愛読書をあげなさい」と言われたら、いったい何て答えるのが最も採用されやすくなるのかの話になり、一人が『ボヴァリー夫人』と答えたので、「おまえは話が読めてない」とバカにされることになり、この後、愛読書面接ごっこになってしばし盛り上がった。「ギャンブルをしている最中の反省は禁物だ」というのは往年の無頼作家色川武大の言葉であるが、この者たちは三省堂の名前の由来も知らなかった。