作文被害 | JOKER.松永暢史のブログ

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もうワケが分からない。

「バカヤロー」と言ってるのに、「いいね」を押す人がいる。

これは筆者がフザケて遊ぶブログなのに、読者もフザケてどうするの?

花粉のせいか気が狂いそうになってきた。

筆者の指導を受ける、あるいはV-netの音読サイコロ作文道場に参加すると、誰でも作文が書けるようになる。

筆者が埼玉山上大学で教えたときもすぐにそれまで書けないと思い込んでいた学生たちが書けるようになった。同様に、子どもに「原稿料を払う」と言うと、よく書くことはすでに述べた。

ということは、実はそもそも作文を書くことは本当はエラく簡単で誰でもできることなのに、絵を描くのが難しいと思い込んで描かなくなる子どもと同様に、作文を書くのが大変だと思い込まされて作文が書けなくなっているのではないか。

もし人に何かを伝えるために口を開くことができるなら、当然それも文章化することができるはずだ。

そして文章化した時、それは口で言うよりはるかに意味的説得力のあるものに変身する。

文章を書くことは愉しい。

別に何について書くのか決めなくてもいい。

散文とは、果てしなく勝手に何かを書くうちに、そこに思いも依らぬものが現れてくるところがオモロいものである。

つまり、遊び。音楽と同じ。

だから、あたかも楽器が弾けない人が「楽器が弾けない」と思い込まされているのかのごとくに、文を書くことが一種大変な「仕事」のように「思い込まされている」のではないか。

学校教師の方も、文章を書くことが気楽な遊びのような仕事であることを知らないで、かつて自分が苦しめられたように、作文を大変なものとして子どもに提示してしまうのではないか。

そして、この「被害」は喩えようもなく大きい。

前問の答え?

<走行違反のDがCをスピード違反でパクるのをBが見た>