生徒が単に成績が上がるだけではなく、アタマが良くなるように導く。
アタマがヨクなるとは、アタマが深い働きをも持つことを体感することである。
本格的な学術に取り組んだことがない筆者は、特に極めて高度な知的能力を持った者ではない。
でも、接する人々は、「そういうアタマの使い方もあったのか!」とそれまでのアタマの使い方を点検整理して、もっと独自の別のアタマの使い方があることの「直感」を受ける者であるらしい。
私は大したことのない存在であることを常に強く意識する。自分は全然「特別」からはほど遠い、「優秀」からはほど遠い、アスペルガー多動症の一市人である。
私より高度なアタマの使い方をする者はゴマンといるはずである。
私には限られた範疇内での「能力」しかない。
しかも常にそれすらも危うい。
なんとなれば、私は現在の自分のいる地点をできたらもっと別の「次元」や「方向性」に絶えず移れないかと画策する者でもあるから。というよりも、確実に「歳」をとる。
私は込み入ったことを完全に体系的に取込むことが能力直観的にできない者である。
同時に完全に「ウケる」ことを、「矛盾点」として捨象する者である。結果、「道化」る。
私は「飽きる」。私には、何もかも完全に連続的にすることはできない。
私はいたって平凡であるが、それでも「物事」には飽きる。
もし飽きたくなければそこにあるのは「自然現象」と「人工芸術」への感性と好奇心であるはずであるが、「こころ」は月のWAVEにも引力的に左右される。
でも、私と逢った者は、それまでにない遭遇体験をするものらしく、
「初めてこんな人に遭った」と口にする。
私は愚かな私のアタマしか「熟知」せぬが、それは何かはわからないが、珍しいものであるらしい。
そんなことより、私は「次」に移る。
だから結果的に、自己の表明は既なる「活動」の直後ということになるが、それは老齢化とともに鈍く非加速的でないことは自覚するが、優れて「客観/直感」的である。
こうして見ると、いい加減である自己の正確な追跡観察が自身の実体だとわかるような気がして来る。
私は、「変化」する「存在」である。
以上、旧き読者おわかりのように、また読者数が増えたので、「目眩し」に書いた。